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ガールズケイリン選手 / 自転車競技トラック日本代表  太田 りゆ

ガールズケイリン選手/
自転車競技トラック日本代表
太田 りゆ

 
1994年、埼玉県上尾市出身。幼少期から抜群の運動センスを誇り、小学生時にはマラソン大会で毎年のように優勝する。中学・高校では陸上競技に打ち込み、800m走を専門に活躍。大学でも陸上競技を続けるべく推薦で東京女子体育大学へ入学するも、両親が離婚したことから経済的に部活を断念せざるを得ない状況になり、家計を支えるべく一転してアルバイトを始める。自分の才能を発揮しつつより良い人生を歩むべく、道を模索する中でガールズケイリン※1の存在を知り、選手になることを決意。日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)に入り、すべてのタイムトライアルで最高基準を上回るなど頭角を現すと、在学中から自転車競技の日本代表にもスカウトされる。ガールズケイリンでは2017年のデビュー場所で完全優勝、2018年以降はトップ選手だけで競うガールズケイリンコレクションに毎年出場。自転車競技の日本代表としては、2023年のアジア選手権のスプリント種目で当時の日本記録を更新するなど、2024年のパリ五輪へ向けて躍進を続けている。

※1 2012年7月1日から復活した女子競輪の正式な愛称

 
 

幼い頃からスポーツ万能、やればやるだけ伸びる才能に恵まれながら、陸上選手の夢を一度は諦め、「生きるため」にガールズケイリンの世界へ飛び込んだ太田りゆさん。誰よりも真面目に、現実的に競技と向き合い、デビューから結果を出し続けてきたが、「試合で負ければ笑うことも許されない」と思うほどのストイックさゆえに、窮屈さを感じる時期もあったという。そこを乗り越え、自転車競技の日本代表としてパリ五輪を目指している今、たどり着いた境地は「人生を楽しむこと」。競技中はアスリート、オフの日は“普通のギャル”――そのメリハリによって競技とプライベートの両方を好転させている太田さんの切り替え術、その極意に迫った。

 

小学生にして趣味は「タイムトライアル」

ガールズケイリン選手と自転車競技の日本代表――2つのフィールドでトップレベルの活躍を見せている太田りゆさん。日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)に入ったのは20歳を過ぎてからと、本格的に競技を始めたのは決して早くなかったものの、瞬く間に頭角を現し、2023年6月には自転車競技のスプリント種目で当時の日本記録を更新。2024年に開催予定のパリ五輪でもメダル獲得が期待されている。自他共に認める抜群の身体能力と運動センスはどのようにして培われたのか。さかのぼっていくと、太田さんの小学生時代の趣味に、その原点があった。

「物心が付いた頃には、スポーツは何でも得意でした。私は小学2年生の時に東京から埼玉に引っ越したのですが、埼玉の小学校には朝マラソンという文化があって、毎日、朝会の前に皆で走っていたんです。学校が用意してくれていた“走ったぶんだけ塗れるグラフ”が進捗することや、だんだんとタイムが速くなっていくことに楽しさを覚えるようになった私は、そのうち家から学校までの道のりも走るようになりました。タイムを測るための時計を親に買ってもらって、ランドセルが揺れないようにベルトを短くしたり、信号に引っかからないようにタイミングを工夫したりして、その日のタイムがどうだったかをすべてノートに記録していたんです。もちろん周りにそんな子はいないので目立っていましたが、友達は応援してくれていました(笑)。それだけ夢中で打ち込んだかいもあって、校内のマラソン大会では2年生から6年生まで毎年優勝できたんです」

ただ運動や走ることが得意なだけではなく、よりタイムを縮めるための工夫や研究を重ねて記録する。誰から言われるでもなく自分でそれを楽しみながらやってしまうところに、太田さんの非凡さがある。努力しただけ速くなるというシンプルな喜びに魅了されながら、太田さんは陸上競技の道を歩んでいった。

「中学までは、短距離も長距離も、さらに幅跳びや投てきも得意で、逆に何を専門にしようかというぜいたくな悩みを抱いていました。高校からは自分の体形が変化して、どちらかというと筋肉質な私は短距離が向いているかなと思ったのですが、顧問の先生が『800mを頑張ろう』と勧めてくださったので、それからは800mを専門に取り組み、推薦で東京女子体育大学へ進学することになったんです」

生きるために選んだ競輪の世界

陸上選手として順調にステップアップしていた太田さん。ところが、大学進学直後に両親が離婚し、経済的な事情から競技を断念せざるを得なくなってしまう。それからは、大学へ通いつつもアルバイトをして学費や家族の生活費を捻出する日々。肉体的にも精神的にも厳しい状況の中、見いだした一筋の光明が、ガールズケイリン選手になるという道だった。

「陸上競技をやるつもりで大学に入ったのに、家庭の事情で部活そのものを断念しないといけなくなり、代わりに始めたのがジムトレーナーのアルバイトでした。大学にも行きながら、何とか家にもお金を入れようと頑張っていましたが、働いても働いても満足できるような収入にはならなくて。その時にふと、このまま社会人になっても自分は稼げるのだろうか、自由に使えるお金はあるのだろうか、という考えが頭をよぎって、今のままは嫌だと思ったんです。それで、わらにもすがる思いで『女性でも稼げる仕事』と検索サイトで調べたところ、ヒットしたのがガールズケイリンでした。実は、幼なじみのお父さんが競輪選手で、昔から『りゆは競輪選手に向いているよ』と言われていて。ただ、競輪学校の指導はとても厳しく、女の子も当たり前のように短髪で、携帯電話も使えなくなるということも知っていただけに、踏み出す勇気を出せずにいたんです。競輪選手風に例えるなら“バックを踏んでいる状態”というか(笑)。でも、一時期だけ我慢をすれば、その先はしっかり稼げる幸せな人生が待っているかもしれないと思い、そこで覚悟を決めました」

自身が生きるため、より良い人生を送るため――そんな強い思いを抱いて、太田さんは競輪学校の門戸を叩いた。自転車の経験は、高校の通学時に乗っていた“ママチャリ”くらい。しかし、いざ競技用の自転車にまたがってみると、周りのどの選手より速いタイムで走ることができたという。

「競技用の自転車はギアが空転しないので、一度漕ぎ始めると足を止められないんです。でも、ペダルを踏むたびにどんどんスピードが上がっていく感覚が、私にとってはすごく楽しくて。初めて乗った時から恐怖感はまったくありませんでした。足を速く動かせばそのぶん速く動けるという陸上競技との共通点がありつつ、足だけではかなえられないスピードを実現できるので、これだ!という感じでしたね。当時の私は、自転車競技に関する技術や知識は何もなく、体力テストだけで入学した『適性組』だったのですが、記録会でタイムを測定すると、私より早くから自転車競技に触れている『技能組』の選手より速かった。そこで初めて、“私は速いんだ”と自覚しました」

「何となく選手になったわけじゃない。
その覚悟があったから頑張れたんです」

 
競輪学校在学中のタイムトライアルはすべて最高基準を上回り、その活躍を見ていた自転車競技日本代表のヘッドコーチからスカウトされる形で、卒業前にアジア選手権のメンバーに選出されるなど、あっという間にスターダムを駆け上がった太田さん。2017年にデビューしたガールズケイリンでもすぐに優勝。自転車競技との“二刀流”で活動する日々が始まった。デビュー直後から過密な日程をこなし、結果を出し続けられた秘訣は、どこにあったのだろうか。

「自分の中では、競技を始めた時の覚悟が、周りとは違ったと思っています。このくらい強くなればこのくらい稼げる、というリアルな部分も見ていましたし、家族のことも考えると絶対に強くならなければならなかった。だから、競輪学校時代から、体重や体温、その日食べたものを隙間なくノートに書き込んで、自分がどういう状態でどんなパフォーマンスができるのかを正確に把握していましたし、本当にできることはすべてやりました。何となく選手になったわけじゃない――その自負はありましたね」

明るく華やかなキャラクターに見えて、太田さんの内面を掘り下げていくと、ストイックと言ってよいほど実直なパーソナリティが明らかになっていく。恵まれた才能と、それを最大限に引き出す徹底した自己管理。さらに、コンディションを整えるためにバックアップし続けてくれるチームの存在も欠かせないと、太田さんは語る。

「自転車競技においては、私はコーチやトレーナー、栄養士の方々に囲まれて、完璧な組織の中でトレーニングに集中することができています。決して自分だけではなく、チームのサポートがあってこそ、トップコンディションを維持できると思っているので、私はチームメンバーを信用して、自分自身もそれに応える一流の仕事をすることを心がけているんです。子どもの頃から周りには『真面目だね』と言われてきましたが、プロになってからの6年で、アスリートとしての自覚・責任感はより磨かれたと思います。ちなみに、私はとても落車が少ないほうで、“鎖骨を折るくらいは日常茶飯事”と言われる競技に身を置いていながらどこも骨折したことはありません。健康で強くありたい、トレーニングを止めたくないという思いが、すんでのところでの“神回避”や立て直しにつながっているのかもしれません」

 

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