巻頭企画天馬空を行く

ロンドン五輪ボクシングミドル級金メダリスト
元WBA世界ミドル級スーパー王者
村田 諒太
1986年1月12日生まれ。奈良県奈良市出身。中学生時代に担任からやりたいことを聞かれ「ボクシング」と答えたことがきっかけで、奈良工業高校ボクシング部の練習に参加するように。中学3年からは進光ボクシングジムに通い、徐々に競技の楽しさに目覚める。南京都高等学校(現・京都廣学館高等学校)進学後は恩師・武元前川氏との出会いもあり頭角を現し、選抜・総体・国体など主要大会の「5冠」を達成。東洋大学時代も全日本選手権で優勝するが、北京五輪の予選では敗退し、一度現役を退く。同大学の職員を経て2009年に現役復帰し、2011年の世界選手権で準優勝したことで2012年のロンドン五輪出場権を獲得。本戦でも激闘を制し金メダルに輝く。2013年からはプロへ転向し、2017年にはハッサン・ヌダム・ヌジカム戦で勝利し、WBA世界ミドル級のチャンピオンとなった。五輪金メダルとプロの世界チャンピオンの両方を達成した初の日本人ボクサー。2023年に現役を引退。
日本人として初めて、五輪の金メダルとプロの世界王座を手に入れた村田諒太氏。唯一無二のキャリアながら、自身では「永遠の未完」と語り、成し遂げた偉業やその過程の努力を誇ることは一切ない。「努力と結果は結び付かない」「外に意味を求めるのではなく己の内にある感覚が重要」――常識にとらわれない独自の思考でボクシング人生を歩んできた同氏がたどりついた境地とは何か、その核心に迫るインタビュー。
“特別”でいたかった子ども時代
ボクシングを始める前、中学生だった村田少年は町でけんかに明け暮れていた。両親の離婚など複雑な事情から荒んでいた少年の心の中にあったのは、「自分の存在を認めてほしい」という純粋な思いだったという。
「当時、私の中には“何かで特別な存在でいたい”という気持ちがあって、その何かが自分にとってはけんかだったり、強さだったりしたのかもしれません。心理学者・アドラーも語っていますが、人間はまず勉強やスポーツなど良いことで特別になろうと思って、それができないと悪いことで目立とうとします。私も例にもれずそうだったのでしょう。普通の子ども――One of themではいられないから、良いか悪いか、どちらかに振れたかったんです」
そんな状況を案じた中学の担任が村田氏に声を掛け、それがきっかけで同氏は奈良工業高校のボクシング部に通い始めることとなる。しかし、中学生が高校生の練習に付いていくことは難しく、最初はまったく長続きしなかったそうだ。
「強さへの興味と、自分が一番強いところを見せたいという思いを持って始めたボクシングでしたが、最初の印象はただただしんどいだけでした。練習のスタートが、500m走5本+800m走2本で、それに付いていくだけでも本当に大変で。初めは2週間、その次は2ヶ月で逃げ出してしまって、長続きしませんでしたね。特別になりたくて、でも嫌なことからは逃げ出して――今振り返ると、普通の子だったなと思います」
きつい練習から何度も逃げ出しながらも、ボクシングを完全に辞めることはなかった村田氏。その理由を尋ねると、当時の心境を感慨深げに語ってくれた。
「どんなにつらくても、自分にとっては居場所ができたことが大きかったんです。先輩後輩の関係も初めて体験できて、アイデンティティが生まれたことがとにかく嬉しかった。中学3年からは進光ボクシングジムへ通うようになり、そこでも皆からかわいがってもらえたり、実戦をやらせてもらえたりして、競技を楽しむ気持ちも芽生えていきました」
「練習したことが結果に結び付いた時、
その成功体験が自信をくれるんです」
成功体験と自信
自らの居場所を見つけ、ボクシングの楽しさに目覚めた村田氏は、南京都高等学校(現・京都廣学館高等学校)へ進学した後にみるみる頭角を現すようになる。才能開花の背景には、当時ボクシング部の監督を務めていた武元前川氏との出会いがあったという。
「なかなか根本的なところで人間は変わらないと思うし、武元先生の教えに対してどうだったと言える立場にはないですが、導いていただいたことは間違いないですね。生徒のことを否定せず、かといって甘やかすこともなく、ボクシング選手として本当に強く育ててくださりました。今の自分を見ていて、人として強くなれたかどうかはわかりませんが(笑)、先生には心から感謝しています」
高校2年時に達成した選抜・総体・国体の高校3冠を含め、在学中に「高校5冠」という偉業を成し遂げた村田氏。選手として強くなっていく手応えを、自身ではどのように感じていたのだろうか。
「私にとって一番大きかったのは、高校1年時の総体で準優勝できたことです。その成功体験を得たことで、“自分は強い相手にも通用するのだ”という自信とモチベーションを持てるようになりました。スポーツの世界ではよく、“練習はうそをつかない”という言葉を耳にしますが、練習は平気でうそをつきます。だから練習だけで自信を持つなんてことは難しくて、練習してきたことがたまたま試合で発揮できて、結果に結び付いた時、その成功体験が自信をくれるんです。私は幸運にも成功体験を早く得られたので、それをきっかけにボクシングの実力を伸ばしていけたのだと思います」
届かなかった初めての五輪挑戦
東洋大学へ進学後も、全日本選手権優勝や、アマチュアボクシングの国際大会である「キングスカップ」で銀メダルを獲得するなど、村田氏は着実に選手としてのキャリアを築き上げていった。その頃には、五輪出場のことも強く意識していたという。
「実は高校3年時の全日本選手権で優勝すれば、アテネ五輪の予選に出ることも考えられると監督から言われていたんです。結局、決勝で負けてしまったことでその話はなくなったのですが、その頃から五輪の舞台に立つことを意識するようになりました。海外のボクシングはどうなのか、強い選手の試合を見たり、そこで学んだものを自分の練習に取り入れたり、ボクシングとの向き合い方も自ずと変化していったんです」
迎えた2007年。大学4年生になった村田氏は、同年の全日本選手権で2度目の優勝を果たしたものの、北京五輪の出場権をかけたアジア予選では勝ち進むことができず、五輪出場はかなわなかった。そして同氏は21歳の若さで一度目の引退を決断することとなる。当時の心境はどのようなものだったのだろうか。
「五輪に出場できなかったことはもちろん悔しかったですが、引退についてはあまり特別な思いはありませんでした。東洋大学の職員としての就職が決まっていましたし、アマチュアボクシングの選手は大学を卒業したら引退、というのが既定路線だったので、私も例にもれず一区切りを付けた形です」
そうして大学職員として働き始めながら、自身が所属していたボクシング部のコーチも務めるようになった村田氏。選手をサポートする視点に立ったことで、新たな気付きもあったと語る。
「教える、という行為は、誰かに教えているようで結局は自分に教えているのだと思いますね。相手に伝えた言葉はそのまま自分に返ってくるから、それが自分を見つめ直す機会にもなる。私は当時現役から退いていましたが、それでも技術的なところで新しい気付きがあっておもしろかったので、例えば現役の選手同士で教え合うような練習環境があっても良いんじゃないかと思います」
指導者の道を歩んでいた村田氏だったが、2009年に転機が訪れる。ボクシング部の元部員が起こした不祥事によって、選手たちが試合出場停止の処分を受けてしまったのだ。この裁定に対して、同氏は「現役復帰」という形で立ち上がる決断をすることとなる。
「当時のボクシング連盟が下した裁定については正直、やりすぎじゃないかという気持ちがありましたし、うちの学生たちが頑張っているところを皆に見てもらうためにも、現役復帰することを決めました。私自身、五輪出場の夢はかなっていなくて、もうちょっとやりたいという気持ちももちろんあったので、自然な選択だったと思います」

巻頭企画 天馬空を行く
- フェンシング五輪金メダリスト 見延 和靖
- マルチタレント/ 歌手 中川 翔子
- ロンドン五輪ボクシングミドル級金メダリスト / 元WBA世界ミドル級スーパー王者 村田 諒太
- 元K-1ファイター 武蔵
- ヒップホップアーティスト / 実業家 AK-69
- サンドファクトリー / K-POP FACTORY CEO キム・ミンソク
- 元K-1スーパーバンタム級王者 WBO世界バンタム級王者 武居 由樹 × 元ボクシング世界三階級王者 大橋ジムトレーナー 八重樫 東
- 株式会社 サンミュージックプロダクション 代表取締役社長 岡 博之
- 元サッカー日本代表 / NHKサッカー解説者 福西 崇史
- スポーツクライミング選手 緒方 良行
