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第69代横綱/ 白鵬 翔

第69代横綱
白鵬 翔

 
1985年3月11日生まれ。モンゴル国ウランバートル市出身。モンゴル相撲の横綱でありレスリング五輪銀メダリストの父のもとに生まれ、父が初代・若乃花と対談したことがきっかけで日本の相撲を知る。15歳で来日し、第10代宮城野に声を掛けられ角界へ。入門時は小柄だったが、他を圧倒する稽古と食事でみるみる成長し、番付を駆け上がる。2007年に22歳の若さで第69代横綱に昇進。2010~2011年には63連勝を含む7場所連続優勝を達成するなど最強の名をほしいままにし、2021年に全勝優勝で引退するまでの14年間、「白鵬時代」とも呼ばれる一時代を築き上げた。幕内優勝回数45回、幕内通算勝利数1093勝、横綱在位期間84場所はいずれも歴代1位。引退後は13代宮城野として後進の育成に当たった後、2025年6月に日本相撲協会を退職し、現在は相撲を国際的に普及させつつ競技価値を高める「SUMOグランドスラム」プロジェクトを推進。9月には国際相撲連盟顧問にも就任し、カザフスタン、エストニア、ウズベキスタンなど各国を飛び回っている。
 
 

15歳で来日し、若さを買われて相撲の世界へ誘われた白鵬氏。身長175cm、体重62kgしかなかった少年は、過酷な稽古をこなす中でみるみる成長し、22歳にして第69代横綱となった。歴代最長となる14年の横綱在位期間で、最多幕内優勝回数をはじめとする既存の記録のほとんどを更新。「最強」として誰より長く土俵に立ってきた同氏は今、相撲という競技を新たなステージへ引き上げるべく、次なる一歩を踏み出している。同氏が掲げる夢と、その先にある相撲の明日へ迫るインタビュー。

 

相撲を世界へ――その原点

「ちょうど昨日、スペインから帰ってきたばかりなんです」。厳しい残暑が続く9月に、スーツを身に纏って現れた白鵬氏は、開口一番笑顔でそう言った。2025年6月に日本相撲協会を退職した同氏は今、相撲の魅力を世界へ広め、性別・年齢・国籍を超えて競技を盛り上げる一大プロジェクト「SUMOグランドスラム」を構想し、その実現に向けた活動に勤しんでいる。歴代最多の幕内最高優勝、歴代最長の横綱在位期間――史上最強と言って過言ではない大横綱が、日本を飛び出し世界へ目を向けるようになったのにはどんな背景があるのか。その原点は、同氏と相撲との出合いにあった。

「私が幼い頃、故郷モンゴルは民主化したばかりで、人々の暮らしは貧しく、私も配給の列に並んだことを覚えています。太っている子なんて1人もいなくて、私も体の小さな普通の子どもでした。そんな私が7歳の時、第45代横綱である初代・若乃花さんが、相撲のルーツを探るために世界各国を回るという旅番組でモンゴルを訪れ、モンゴル相撲の横綱でありメキシコ五輪レスリング銀メダリストでもある父と対談したんです。私も少しですが話を聞いて、お菓子をいただいて――そこで初めて相撲というものの存在を知りました」

幼き日の白鵬少年も、横綱から直接話を聞いて、日本のこと、相撲のことを知ったのである。ただ、当時の白鵬少年にとって日本は遠い存在だった。すぐに相撲をやりたいという気持ちになったわけではなかったという。

「相撲のことを知ってから、雪の日に雪原の上に指で円を描いて友だちと相撲を取ったりはしていましたが、あくまで遊びで、中学生まではむしろマイケルジョーダンに憧れてバスケットボールに熱中していました。足も速くて100mを12秒台で走っていたんですよ。それに、母親が日本のテレビドラマ『おしん』の大ファンで、衛星放送で毎日のように見させられていたせいで、日本には暗いイメージがあって、行きたいなんて少しも思っていませんでした(笑)。でもその何年か後に木村拓哉さん主演の『ラブジェネレーション』を見て、全然イメージと違うじゃないかと(笑)。それで、少しずつ日本にも興味が出てきたんです」

バスケットボールのスター選手に憧れたり、テレビドラマの雰囲気に感情を左右されたり――本当にどこにでもいるような普通の少年だった白鵬氏。そんな同氏に転機が訪れたのは2000年、同氏が中学校を卒業した年のこと。モンゴルの有望な若者に興味がある日本相撲協会や親方たちによって、相撲の実業団チームを擁する摂津倉庫で稽古を体験しながら大阪の街を見学するというツアーが組まれ、6人のメンバーとして白鵬氏も選ばれたのだ。

「当時は朝青龍さんが活躍され始めた時期でもあり、協会の親方たちは皆、モンゴルの若者に興味を持っていました。ただ、私たちが参加したのはあくまでツアーで、朝青龍さんのような角界入りを見据えた相撲留学ではありませんでした。しかし、摂津倉庫の会長が大相撲との交流が深い方で、2ヶ月のホームステイの間に何人もの親方が視察にやって来たんです。そうして1人、また1人とスカウトされていくうちに、もしかしたら自分にも声が掛かるかもしれないという気持ちが芽生えていきました。“正夢”ではないですが、関取になった自分が髷を結ってモンゴルを訪問する夢も見ましたね(笑)。ただ、その頃の私は身長175cm、体重62kg。相撲をするにはあまりに小さく、なかなか親方から声を掛けてもらえなかったんです」

結局、滞在期間中に親方からスカウトされることはなく、失意の中で帰国することになった白鵬氏。しかし、帰国前日、同氏を呼び止める1本の電話が鳴る。その電話口の人物こそ、白鵬氏が入門することになる宮城野部屋の親方、第10代宮城野氏だった。

「宮城野部屋には当時、私と同じモンゴル出身の龍皇という先輩がいて、“龍皇より年下であること”というのが宮城野師匠の唯一の条件だったそうです。師匠も現役時代は体重110kg程度と小柄ながら、275kgもある小錦関に勝ったこともありましたから、若くから努力をすれば体格はどうにでもなるという考えを持っていたのかもしれません。そうして2000年末に宮城野部屋へ連れて来られたものの、日本語は当然わからないし、稽古もまったく付けてもらえなくて――どうしてなのか怪訝に思っていたのですが、翌年3月の新弟子検査で合格するには最低でも身長173cm、体重75kgの体格が必要で、稽古をすると逆に瘦せてしまうから、それまではひたすら食べて寝ろという師匠の計らいだったと後で知りました。そのかいあってか、わずか3ヶ月の間で体重は18kg増え、身長も5cm伸びて、無事に新弟子検査を合格して宮城野部屋に入門することができたんです」

「白鵬という名をもらい土俵に立った日。
それが地獄の道の始まりでした」

 

「地獄の稽古」と急成長

かつて同じ時代で活躍した2人の横綱、柏戸と大鵬に因んで「白鵬」という四股名をもらった白鵬氏。2001年3月場所で初土俵を踏み、番付に初めて名前が載った同年5月場所は3勝4敗で負け越し。そこから、力士としての壮絶な日々が始まったという。

「それまで相撲部屋にお客さんとしていた少年が、白鵬という名をもらって土俵に立つようになった。それが、地獄の道の始まりでした(笑)。何とか入門できたとはいえ力士としてはまだまだ体が小さかった私は、取り口もうっちゃりとか、手を取ったりはたいたりが多くて。もちろんそれは好んでではなく、不利な体勢からやむを得ずという展開ばかりでした。そこで、まずは体をつくらなければということで、ひたすら稽古に打ち込んだんです。稽古が始まって最初の20分は、毎回心臓が破裂するんじゃないかと思うほどきつくて、1日3回は泣いていました。稽古中はもちろんのこと、稽古が終わって夜布団に入った時も、“明日また稽古か”と思うと泣いてしまうんです」

キツさのあまり、稽古のことを想像しただけで涙が出る――常人の想像を絶する過酷さである。とりわけ、白鵬氏は他の力士とは比較にならないほど多くのぶつかり稽古を行い、通常は5分でもかなりの体力を削られると言われるところ、40分続ける日もあったそうだ。

「ぶつかり稽古はスタミナや相手を押す力という相撲の基礎的な能力が鍛えられるため、非常に有意義なトレーニングだと思います。ただ、何より重要なのは、ぶつかり稽古によって心拍数が急激に上がることで、体から成長ホルモンが出ることなんです。これは言うなれば“自然のドーピング”で、私が短期間で一気に体を大きくすることができたのは、間違いなくぶつかり稽古のおかげでした。また、“寝る子は育つ”ということわざがありますが、稽古後の私はとにかくよく寝ていました。寝返り1つ打たず同じ体勢で寝続けるものだから、先輩たちから『死んでいるんじゃないか』と心配されたくらいです(笑)。たくさん稽古をして、よく食べてよく寝る――当たり前のことですが、それを素直な気持ちで受け止めて続けられたからこそ、他人より早く結果を出せたのだと思います」
 

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