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巻頭企画天馬空を行く

マルチタレント/ 歌手 中川 翔子

マルチタレント/ 歌手
中川 翔子

 
東京都中野区出身。幼少期から「セントラル子供タレント」に所属し子役として活動する。また両親から水木しげるや楳図かずおの漫画を与えられたことをきっかけに、絵を描くことや漫画・アニメ・ゲームに熱中するようになる。2002年にミス週刊少年マガジンに選ばれ、本格的に芸能活動を開始。2004年から始めた「しょこたん☆ぶろぐ」で自身の趣味を発信したところ大きな反響を呼びブレイクする。歌手としては2007年に『空色デイズ』でNHK紅白歌合戦に出場、声優としてはディズニー作品『塔の上のラプンツェル』で主役のラプンツェル役を務め、さらにバラエティ分野でも活躍するなどマルチタレントとしての才能を発揮。また保健所で殺処分にされる猫を保護して飼育したり、いじめを受ける子どもたちを助けるためのフリースクールを開いたりと、社会貢献活動にも尽力する。2025年5月には第一子妊娠を公表するとともに独立して個人事務所「miracle」を設立。新たなスタートを切った。

 
 

中学時代に「絵を描くのが好き」という理由でひどいいじめを受け、卒業式に参加できないほどの深い傷を負った中川氏。しかし、その境遇に負けることなく自分の“好き”を貫き、発信し続けたことで同氏は数々の夢をかなえ、マルチタレントとして誰もが知る存在となった。2025年に新たな門出を迎え、「これまで生きていて良かったから、子どもたちにも生きていて良かったと思ってほしい」と語る同氏の現在地を照らすインタビュー。

 

漫画・アニメに夢中だった幼少期

タレント、グラビアアイドル、女優、声優、歌手、漫画家、YouTuber――芸能・芸術に関わるあらゆる分野で活躍するマルチタレント、中川翔子氏。あふれる才能を持ちながら、自身では「子どもの頃から続けてきた好きなことが全部仕事になっているので、本当にありがたいし、驚いている」と謙遜する。そんな中川氏の原点となったのが、幼少期に両親から与えられた漫画だったという。まずは当時のことを振り返ってもらった。

「父も母も大の漫画好きで、父からは『これを読まないと大人になれない』と水木しげるさんの作品を、母からは楳図かずおさんの作品を勧められて、どちらもホラー漫画なのですが(笑)、それがきっかけで私も漫画や絵を描くことが好きになったんです。読めない字があるような大人向けの漫画も当時から読んでいて、漢字とか世の中のこととか、大体のことは漫画から教わった気がしますね」

中川氏の父・勝彦氏は、俳優・ミュージシャンとして芸能界で活躍していたが病に倒れ、中川氏が9歳の時に他界してしまった。その後は母が1人で懸命に働きながら家庭を支え、中川氏の趣味も応援し続けてくれたのだという。

「父が病気で入院してからは1人で留守番をすることも増えたのですが、そんな中で心の支えになったのが漫画やアニメ、ゲームでした。周りがバタバタしている時に『これをやりなさい』と叔母が買ってくれたのが『ドラゴンクエストV』で、私が人生で初めてクリアしたゲームとして本当にたくさんのことを学びました。アニメも、セーラームーンとかドラゴンボールとか、上質な作品にリアルタイムで触れることができましたし、中野ブロードウェイが近所だったので、漫画の“全巻買い”とかもけっこうしてもらいましたね。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、父が亡くなってからも母は私に漫画と絵を描く道具だけは惜しまず買い与えてくれて、私も絵を描いている時間がとにかく幸せで――『三つ子の魂百まで』と言いますが、その当時に与えられたワクワクが夢として花開いて今の仕事につながっているので、すごく恵まれた子ども時代でしたね」

亡き父への反発と表舞台への憧れ

5歳の頃から「セントラル子供タレント」に所属して子役としても活動していた中川氏だが、当時は芸能界への思いはさほど強くなかったそうだ。では、どのような経緯で芸能の道を志すようになったのだろうか。

「私の中で“芸能界の人”といえば父で、リアルタイムでライブを見ることはできなかったのですが、例えば幼稚園の参観日に父を見た先生たちが黄色い声を上げているのを目の当たりにして、他とは違う人なんだなと感じていました。だからこそ、思春期に入り始めた頃に、ネットで父のいろいろな噂を見かけたことにすごくショックを受けてしまって。私と母を残して死んでしまった父に反発する気持ちがすべて向いて、『父と同じ道へなんか絶対に行くものか』と思っていたんです。でも、一方で私が好きになった戦隊もののヒーローとか、ジャッキー・チェンさんやブルース・リーさんといったアクション映画のスターたちは、映像の中で輝いていて――父への反抗心はあったものの、それとは全然違う角度で、『戦隊ヒロインになりたい』『アクション映画の中に入ってみたい』という気持ちが少しずつ芽生えていったんです。あとは、グラビアを集めるのが好きだったので、グラビアアイドルになりたいという思いもありました」

「どん底の暗闇にいたからこそ、楳図先生の
“またね”という言葉が深く響きました」

 

相反する2つの気持ちを抱えながらも、中川氏は2001年に芸能雑誌『ポポロ』のガールオーディションでグランプリを受賞し、翌2002年にはミス少年マガジンに選ばれ、グラビアアイドルとして芸能界デビューを果たすこととなる。さらに同時期には憧れの人物であるジャッキー・チェンが手がける事務所の日本支部にも所属するなど、傍目には順調な滑り出しに見えたが、当時の中川氏の心は暗く沈んでいた。

「中学時代にひどいいじめを受けて引きこもってしまったこともあって、その頃の私は世の中を悲観したり、自分を呪ったりする癖がついてしまっていました。高校生になってポポロでグランプリをいただいた時も、それが原因で『あいつ調子に乗っている』みたいに言われたのがすごくつらくて――そんな私を見かねた母が、16歳の誕生日プレゼントにと、香港へ連れて行ってくれたんです。それで、ジャッキー・チェンさんが経営するレストランへ食事に行ったところ、偶然、隣の席にジャッキー・チェンさんがいらっしゃって。感激したものの食事中に話しかけるのは悪いと思って、母と2人でこっそり泣いていたら、『日本から来たの?何で泣いているの?僕が払ったからご飯食べていきなさい』って向こうから話しかけてくださったんです。神対応すぎますよね(笑)。その時のご縁で、ジャッキー・チェン事務所日本支部にも所属させていただくことになったのですが、難しいもので、好きなことと得意なことは違うというか、私はアクションが本当にできなかったんです。広東語もマスターするには至らず、仕事がないまま契約解除になってしまいました。それで再び『ジャッキーにも嫌われちゃう、私はもうだめだ』とどん底の気持ちになって、18歳くらいまで本当に暗かったですね」

運命を変えた楳図かずお氏との出会い

戦隊シリーズのオーディションも落選し、思うようにキャリアを積めない時期が続いた中川氏は、一時は芸能界から引退することまで考えていたという。しかし、そんな中川氏を引き留めるかのように、運命的な出会いが訪れることとなる。

「ある日、もともとのキャストが体調不良になったということで、ロケ番組のリポーターの代役を務めることになったのですが、そのロケでご一緒するお相手が楳図かずお先生だったんです。私が落ち込んでいる時、楳図先生の漫画をひたすら模写することが心の支えになっていましたし、大好きな存在だったので、まさか本人と会えるなんて思いもしなくて。舞い上がって『ペンは何を使っているんですか!?』とあれこれ質問する私に、先生は『カブラペンだよ!』とすごく優しく、1つずつ答えてくださり、最後に『またね』と声をかけてくださったんです。何気ない、さらっとした一言だったと思います。でも、どん底の暗闇の中にいた私にはその言葉が深く刺さり、響きました。辞めなければ、死ななければ、また楳図先生に会えるかもしれない――そうして、私はもうちょっと頑張ってみようと思い直すことができたんです」

 

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