巻頭企画天馬空を行く
株式会社 サンミュージックプロダクション /
代表取締役社長
岡 博之
1958年、京都府生まれ。写真撮影の趣味が高じて映画製作に興味を持つようになり、東映京都撮影所に入る。同撮影所付属の俳優養成所にて後の相方であるぶっちゃあ氏と出会い、その後は太秦での斬られ役として大部屋俳優の道へ。1979年、撮影所を訪れた森田健作氏から声を掛けられ、現場マネジャーとして上京。1981年に「ブッチャーブラザーズ」を結成し、TV番組『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」にて12代目チャンピオンに輝いたことで、サンミュージック初のお笑いタレントとなる。活動を続けながら若手芸人の育成にも注力し、ダンディ坂野氏やカンニング竹山氏らを世に送り出す。2011年から(株)サンミュージックプロダクションの取締役となり、2023年11月には代表取締役社長に就任した。
サンミュージック初のお笑い芸人「ブッチャーブラザーズ」のツッコミ役・リッキーとして、相方のぶっちゃあ氏と共に40年以上のキャリアを歩んできた岡博之氏。自らお笑いライブを主宰しつつ後進の育成にも尽力し、本人たちのネタへの「熱量」と「愛」を重んじる指導でダンディ坂野氏をはじめとした数々の芸人をブレイクさせてきた。その人望の厚さと類まれなマネジメント能力によって、サンミュージック全体の舵取りさえも任された今、思い描くビジョンは何か。優しくも熱く語られる言葉を掘り下げていくと、同氏が目指す「クリエイティブな会社」の輪郭が少しずつ明らかになっていった。
製作に興味を抱き芸能の世界へ
2023年11月6日、岡博之氏は(株)サンミュージックプロダクションの代表取締役社長に就任した。お笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」のリッキーとして、相方のぶっちゃあ(山部薫)氏と共に歩んだ道のりは43年。1人の芸人が大手芸能プロダクションの社長に抜擢されるキャリアは異色に見えるが、同氏の足跡を丁寧に振り返ると、築き上げてきた人脈・人望がしっかり今につながっていることがわかる。その原点を探るべく、まずは芸能の世界へ足を踏み入れた若き日のことをじっくり語ってもらった。
「実は、最初に興味を抱いたのは写真だったんです。家に古いカメラがあって、小学5年生くらいから写真を撮ることが好きになりました。中学からはSLブームに乗じて友だちと蒸気機関車を撮り歩いたり、戦場カメラマンとして当時の日本でも人気だったロバート・キャパの書籍を読んだりして、俺が進むべき道はこれだ!なんて思っていました(笑)。私には3つ上の兄がいて、彼はいわゆる本の虫で成績も非常に優秀だったので、その反発もあったのかもしれませんね。しばらくすると、友だちが8ミリフィルムのカメラを持ってくるようになって、それからはプラモデルを撮影したり、モデルガンを持って走っているところを撮ったり、だんだんと映像の世界に引かれるようになっていったんです」
意外なことに、岡氏が憧れたのは役者や芸人といった表舞台で演じる職業ではなく、写真や映像などの製作に関わる職業だった。高校進学後も、その志向は一層強くなっていったという。
「高校は工業高校で、車のエンジンをばらすようなこともしたので、ものづくりというか、製作の道に進みたい気持ちはどんどん強くなっていきました。そうして、高校を卒業すると大阪の映画学校に入り、撮影所から来ていた先生に“アルバイトで人手がいる”と言われたことから、雑用として東映京都撮影所に出入りするようになったんです」
運命を変えた出会い、そして上京
裏方として入った東映京都撮影所。しかし、そこで岡氏は自身の将来を大きく変える2人と運命的な出会いを果たすことになる。1人は、撮影所内にある俳優養成所の先輩で、後の相方となるぶっちゃあ氏。もう1人は、当時すでにスター俳優として数々の作品で主演を演じていた森田健作氏だった。
「ぶっちゃあは当時からムードメーカー兼トラブルメーカーというか(笑)、きっかけづくりの人でしたね。私が自主映画をつくっていたことがあると話をすると、“へぇ、おもしろいね”と興味を持ってくれて。それからつるむようになったんです。自分の興味も、製作だけでなく喋ることや演じることにまで範囲が広がっていき、今も俳優として活躍している徳井優を仲間に入れて、3人で自主映画グループを組んだりして――そんなある日、映画『赤穂城断絶』の撮影で、森田健作が撮影所にやってきたんです。物怖じしないぶっちゃあがまずあいさつへ行き、世間話の延長で“後輩がいます”と私も紹介されました。すると、森田が私たちに“ずっとこっちでやっているのか?”と聞いてきて、東京に出たいということを伝えると“それなら、現場のマネジャーとして2人で来ないか”と誘ってくれたんです。その3日後には東京へ出発しました」
ふとした出会いをきっかけに、俳優養成所からあっという間にスター俳優の付き人に。今の時代ではなかなか考えられない、良い意味で大らかな“昭和的”エピソードだ。とはいえ、誘われてわずか3日での上京。岡氏の中に迷いは生じなかったのだろうか?
「当時は前しか見ていなかったですし、こんなチャンスはないということで迷いは一切ありませんでした。家族にもすぐ話して、森田の家に住み込みになるからと布団だけ送ってもらって。ただ・・・当時、良い感じに付き合っていた女の子がいて、その子に引き留められたらどうしようかと思っていたのですが、話してみると“良い話じゃん、行ってきなよ!”とあっさり背中を押されまして。これは脈なしだなと思って出てきました(笑)」
「ブッチャーブラザーズ」結成
森田氏の付き人をしながら、岡氏は製作、ぶっちゃあ氏は俳優と、それぞれに自身が進む道を模索していた2人。転機は、意外なタイミングで訪れた。
「東京に出てから、1年半ほど森田の付き人をしたのですが、このまま続けていても次の展開がないかもしれないと思い、“2人ともやりたいことがあるので”と辞めることにしたんです。ちょうど当時は漫才ブームで、『お笑いスター誕生!!』や『笑ってる場合ですよ!』といったお笑い番組が始まった頃でした。すると、サンミュージックのマネジャーの1人が、私たちが関西弁であれこれ喋っているのを見て“おもしろいから2人で漫才やったらどうだ?何かのきっかけで世に出れば、やりたいことをやるチャンスもあるぞ”と言ってくれて。私自身、お笑いは子どもの頃から好きで、実は中学高校時代に漫才のネタをつくったことがあったんです。それをぶっちゃあと喋ってみると、漫才の形になったので、やってみることにしました」
そうして出場したのが、『笑ってる場合ですよ!』のコンテストコーナー「お笑い君こそスターだ!」。プロアマ問わず参加できるコンテストを5日勝ち抜き、見事グランドチャンピオンに――「ブッチャーブラザーズ」が誕生した瞬間だった。
「私たちに漫才を勧めてくれたマネジャーが、チャンピオンになったら社長に掛け合うと言ってくれていたので、それでサンミュージック初のお笑い芸人として所属することになったんです。当時の私は23歳。本当に展開が速かったですね。その次の年には『ザ・テレビ演芸』でもグランドチャンピオンになることができて、自分たちの芸に自信を深めていきました。今になって思うと、東映にいた頃に芝居をかじったり、撮影する側をやったりしていた経験が、他の芸人たちとは違った視点や角度のネタにつながっていたのかもしれませんね」
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