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巻頭企画天馬空を行く

元プロバレーボール選手 / 元プロビーチバレーボール選手  越川 優

元プロバレーボール選手 /
元プロビーチバレーボール選手
越川 優

 
1984年生まれ、石川県出身。両親共に元バレーボール選手という環境で育つ。先にバレーボールを始めていた姉の後を追いかける形で自身も競技を始め、高校は全国屈指の強豪校、長野県岡谷工業高等学校に進学。3年間を通じて好成績を残す。高校卒業後は大学を経ずにVリーグへ挑戦し、「サントリーサンバーズ」へ入団。2006年にはチームとして初となるプロ契約を結び、チームの優勝に貢献し個人でもMVPを受賞する。日本代表としてもチームをけん引し、2008年の北京五輪出場へ導く。2009年からはイタリアのプロリーグへ移籍。左膝の大ケガを乗り越え活躍する。2012年にVリーグに復帰し、2013年からは「JTサンダーズ」に入団。2年目の2014年にはキャプテンとしてチームを優勝へ導き、2度目のMVPを受賞する。2017年から東京五輪を目指してプロビーチバレーボール選手に転向。奮闘するもコロナ禍で練習ができなくなったためインドアへ復帰。2020年に「ヴォレアス北海道」へ入団し、選手として活動しつつクラブ運営も学ぶ。2022年に現役を引退し、現在は(特非)みなとみらいクラブのシニアディレクターとして後進の育成に注力している。
 
 

破壊力抜群のジャンプサーブとさわやかな笑顔をトレードマークに、多くのファンを魅了してきた越川優氏。“プリンス・オブ・ニッポンバレー”の称号を背負い、日本男子バレーボールをけん引した同氏だが、キャリアを通してすべてが順風満帆だったわけではない。海外挑戦と2度の大ケガ、ビーチバレーへの転向、コロナ禍による練習中断――度重なる困難に直面しながらも、前向きな気持ちで乗り越えられたのは、五輪への強い思いと、「今」を大切にする同氏の生き様があったからだ。過去でも未来でもない、今と向き合う人生術に迫るインタビュー。

いつも身近にあったバレーボール

 父は高校時代に国体出場、母はクラブチームで全国大会に出場――両親共に一流のバレーボール選手という家庭に生まれた越川氏。家にボールが転がっているのは当たり前。そんな環境で育った同氏だが、「自分も競技をやりたい」とは思わなかったという。

「私が物心つく頃には父はバレーボールの指導者になっていて、自分のチームを持っていましたし、バレーボール協会の仕事もしていたので、家はいつも新しいボールが山積みで、体育館の倉庫みたいでした(笑)。練習や試合にも当たり前のように付いて行って、常にバレーボールが身近にある環境だったのですが、不思議と自分でやりたいという気持ちは起こらなかったんです。スポーツ自体は見るのもやるのも好きで、友達から誘われて野球をやったり、サッカーをしたりしていました。当時、地元・石川県の星稜高校に松井秀喜さんが在学されていて、甲子園にも出場されていたので、夢中で応援していたのも覚えています」

エリート家系にありがちな、幼少期から競技にどっぷり漬かる日々ではなく、ごく普通の少年時代を過ごしていた越川氏。そんな同氏をバレーボールの道へいざなったのは、3つ年上の姉だった。

「子どもの頃の私は、姉がやっていることを何でもやりたがって、書道や水泳などの習い事も全部、姉のまねをして始めたんです。そんな姉が中学でバレーボール部に入り、試合の応援に行くうちに、だんだんとやりたいという思いが強くなって。ちょうど、姉の同級生の弟が同い年だったので、『一緒にやろうよ』と誘ってバレーボールの少年団に入りました。姉とはけんかも多かったですが(笑)、それだけ仲も良くて、いつも後を追いかけさせてくれる存在でしたね」
 

高校バレーの“常勝軍団”へ

いざ、競技を始めるとすぐに頭角を現した越川氏は、中学を卒業すると全国屈指のバレー強豪校、長野県岡谷工業高等学校へ進学した。各県からトップレベルの選手が集まる環境での3年間を、同氏はどのように過ごしたのだろうか。

「私が入学する前の岡谷は、ちょうど春高バレー(全国高等学校バレーボール選抜優勝大会)を3連覇中で、“全国優勝以外は敗北”と言えるほどの常勝軍団でした。しかし、チームの中心メンバーが多かった世代が私と入れ替わりで引退してしまって、私は1年生ながら副キャプテンの重役を任されることになったんです。責任感は人一倍あるタイプなので、自分なりに頑張ってみたのですが、その年は春高バレーがベスト8、インターハイは準優勝、国体は予選負けと1つも優勝できなくて――私が入学してから全国で勝てない岡谷、というのが本当に嫌でしたね。だから、当時は自分が全国レベルでやっていける手応えを感じる余裕はまったくなく、とにかくやるしかないと必死に練習していました」

2年生からはキャプテンとしてチームをけん引した越川氏は、春高バレー準優勝、インターハイ3位、国体優勝と前年を上回る結果を残す。その活躍が認められ、2002年の釜山アジア大会では、男子高校生として初めて、日本代表のメンバーにも選出された。

「3年生時のインターハイが終わった後に、アンダー20やシニアBのチームにも呼んでいただき、期待をしていただいているというのは実感しつつも、自分の中ではそれに見合った実力がまだ足りないと感じていました。特に、シニアAのチームは大学やVリーグ(日本のセミプロバレーボールリーグ)のトップ選手が集まっていて、生半可な覚悟では付いていけないレベルだったので、そこでもやはり、ひたすら必死に練習するのみでしたね。今思い返すと、そうやって厳しい環境に身を置き続けたことが、自分のやるべきことや、進むべき道を定めてくれたような気がします」


 

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