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ヒップホップアーティスト / 実業家 AK-69

ヒップホップアーティスト / 実業家
AK-69

 
1978年、愛知県小牧市出身。2004年にKalassy Nikoff名義でソロ活動をスタート。名古屋市を拠点に活動を行い全国のクラブで年間180本のライブをこなし、インディーズにも関わらずゴールドディスク2枚、オリコンDVD総合チャート1位を獲得。2012年に渡米し、ニューヨークのナンバーワンヒップホップラジオ局「HOT97」で日本人として初のインタビューを受け、伝説的なヒップホップレーベル「Def Jam Recordings」と契約を果たす。プロ野球選手の登場曲使用率1位をはじめ、横綱・照ノ富士関、車椅子テニス世界王者の小田凱人選手、サッカー日本代表の堂安律選手、ボクシング世界4階級王者 井岡一翔選手の入場曲を生歌唱し共に入場するなど、数々のトップアスリートたちから支持が最も厚い。2020年8月には名古屋城、2022年1月には鈴鹿サーキットで、共に史上初となる無観客配信ライブを開催。これまで5度の日本武道館ワンマンライブを行い、2025年6月9日には初の横浜アリーナワンマンライブを開催する。

 
 

デビュー以来、「険しい道をあえて選ぶ」インディペンデントなスタンスを貫き、5度の日本武道館ライブや、名古屋城・鈴鹿サーキットでの無観客ライブなど数々の偉業を成し遂げてきたヒップホップアーティスト。それが、2000年代以降の日本ヒップホップ界で最も大きな成功を収めた1人であるAK-69氏だ。アパレルブランドやマネジメント事務所を経営する実業家としての顔も持ち、アスリートや経営者からも絶大な支持を得ている同氏に、ヒップホップ誕生の地で得たものや、挑戦へと駆り立てられる原動力などについて熱く語ってもらった。

 

アルバイト先でヒップホップと出合う

2024年にソロデビュー20周年を迎えたAK-69氏は、1978年に愛知県小牧市で生まれた。小学校1年生から剣道に励み、学業優秀で高校は進学校に進んだ同氏は、その高校を中途退学し、17歳からラッパーとして活動を始める。音楽やヒップホップとの出合いや、ラッパーを目指すようになったきっかけに関する述懐からインタビューは始まった。

「私は中学2年生の時に転校し、その転校先で尾崎豊さんの曲と出合って感銘を受け、自分でも音楽をつくりたいと思うようになりました。祖父にギターを買ってもらい、尾崎さんの曲のコード進行を模倣しながら作曲をするようになったんです。その後、高校2年生の時に一度休学し、名古屋市の洋服店でアルバイトを始めました。その店でヒップホップと出合ったんです。店ではよくヒップホップの曲がかかっていましたし、店内にはヒップホップのコーナーもありました。ヒップホップというのは、厳しい環境で暮らす黒人たちが社会へのメッセージなどを歌にした、『持たざる者の音楽』だと形容できます。ただ当時はまだ、ヒップホップの文化をそれほど深く理解していたわけではありませんでした。一見悪そうな人たちが、荒んだ生活を送る中で培ったメッセージを世に向けて放ち、かつそれが称賛されているという事実にまず衝撃を受けたんです。その時は私も人並みに道を外れていたので(笑)、一本筋が通ったカッコいい不良たちの表現手段としてのヒップホップに魅了されました。それで『自分もヒップホップをやろう』と思うようになったんです。1990年代半ばに特によく聞いていたのは、ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグ、あるいはアイス・キューブや2パックといった、アメリカ西海岸のヒップホップアーティストの曲でした。和訳を見ながら彼らの曲を聞き、とにかくしびれていたのを覚えています。もちろん、リリック(歌詞)だけではなくサウンド的にもすごいと思いましたし、彼らのつくる音楽世界にどっぷりと浸っていました」

自然な形で成立した歌とラップの二刀流

1999年、AK-69氏は名古屋市を拠点に活動するレゲエDeejay、B-ninjahと「B-ninjah & AK-69」を結成し2枚のアルバムをリリース。その後、名古屋で精力的にライブを行いながら、2004年にKalassy Nikoff名義でシンガーとして、そして翌2005年にAK-69でソロデビューする。歌(=Kalassy Nikoff)とラップ(=AK-69)の二刀流という独自のスタイルはどのようにして生まれたのだろうか?

「先ほど言った通り、私は10代で音楽を始めた時からギターを持って歌っていたので、Aメロでラップして、サビでは歌うというのは最初から自然な形としてありました。特に意識してそのようなスタイルを確立していったというわけではないんです。作曲している時にサビの部分のメロディが浮かぶので、それを歌っている感じでした。今でこそアメリカのラッパーの曲にメロディが付いているのは当たり前になっていますが、当時はメロディアスなヒップホップの曲はほとんどなかったんです。そのこともあってか、昔はヒップホップの曲を聞いている人の数は今よりも少なかったですし、ヒップホップアーティストがお茶の間に浸透するということはなかった。いま思えば歌も歌うということが、他のラッパーの曲と比べて私の曲が聞きやすくなった要因の1つだと思います」

ヒップホップ誕生の地、NYで得たもの

アルバム『THE CARTEL FROM STREETS』が、インディーズながら2012年2月度のゴールドディスクとして認定され、人気知名度が上昇していた最中の2012年6月に、AK-69氏は音楽制作と「武者修行」を兼ねてニューヨークへ渡る。同氏はヒップホップ誕生の地で何を得たのだろうか。

「ニューヨークでは本当にいろいろな収穫がありました。よく『ガラパゴス化』と形容されるように、日本というのは特殊な国で、音楽のマーケット1つとっても日本国内だけで成り立っているんです。だからそれまで日本で音楽活動をしていて日本を離れた時には、完全に自分の活動がストップした感覚がありました。では日本人ミュージシャンがアメリカでヒットする曲をつくれるかというと、過去に何人もの先人たちが挑戦しましたが、やはり難しかった。最近では、千葉雄喜(元KOHH)が『チーム友達』という曲で海外からも注目を集め、アメリカの人気ラッパーであるミーガン・ジー・スタリオンのヒット曲『Mamushi』に参加した例がありますが、それは極めてレアなケースです。そうした状況なので日本からアメリカへ行くのには勇気が必要ですが、『挑戦したい』という強い思いが私にはありました。『アメリカでヒットしたい』という気持ちで渡米したというよりは、単なる移住ではなく、アメリカに身を置いてそのカルチャーを肌で感じながら、当地のシーンから何かを得たいという思いだったんです。ありていに言うと、私の曲はアメリカ人に向けてつくった曲ではないですし、アメリカのリスナーの大半は日本語の歌詞を理解できません。また、アメリカの音楽ファンは非常にシビアです。例えば、カニエ・ウェストやフューチャー(いずれも当代きっての人気ラッパー)も以前出演した、ニューヨークのラジオ局『HOT97』主催の音楽イベントに出演させてもらった際も、ステージに出た当初は観客からとても冷たい視線を浴びました。でも、用意していたMCやヒップホップに対する感謝の思いを伝えると、にわかに会場がアットホームな雰囲気に変わったんです。それ以降は、日本語の曲を披露しても観客に伝わったという手ごたえをおぼえましたし、最後は拍手喝采を浴びました。あの時の経験は自分にとって本当に大きかったですね。日本に帰国後、ロックフェスティバルだろうと企業のライブだろうと、どんなステージに立っても日本語が通じるというだけで、何も怖くなくなりましたから。またアメリカに行ったことで、日本で自分を取り巻く環境を俯瞰で見ることができ、それによって人間的にも成長できたと思います。さらに大きかったのは、自分自身が日本人であることの意味を考える契機になったということです。他の国の人たちは母国についていろいろな話ができるのに、日本人は自分の国のことをほとんど話せない習性があります。そうした点も含めて、自分が日本人であるということを改めて見つめ直すようになりました」

 

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