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フェンシング五輪金メダリスト
見延 和靖
1987年7月15日生まれ。福井県越前市出身。幼少期から運動が得意で、小学生時代は空手、中学生時代はバレーボールに打ち込む。父の勧めでフェンシングを始めることを決め、全国大会常連の名門・福井県立武生商業高等学校へ進学。法政大学進学後はエペに専念し、学生フェンシング五大大会制覇、広州アジア大会団体銅メダルなど、一気に頭角を現す。イタリアへの武者修行を経て、2016年のリオデジャネイロ五輪では個人6位。そこから「団体で金メダル」を目標と定め、チームとしてのレベルアップに励む。2019年には世界ランキング1位も経験し、2021年の東京五輪ではキャプテンとしてメンバーをまとめ上げ、悲願の団体金メダルを獲得。2024年のパリ五輪でも団体銀メダルを獲得し、エペ史上初となる五輪2大会連続の団体でのメダル獲得を達成する。現在は“史上最強のフェンサー”になることを掲げてフェンシング道の探求を続けながら、次世代が進むべき道も示している。
本代表として戦う意味を常に考え、試合前には精神統一のために包丁を研ぐ―誰よりもフェンシングを「道」と捉え、その探求に励んでいるのが、見延和靖氏だ。日本人が勝てないと言われたエペで日本代表チームを世界最高レベルへと押し上げ、勝ち続けるのが難しい競技において絶対的な存在となるべく己の道をただひたすらに歩む。そんな同氏の道程をたどりながら、一流の哲学を語り尽くしてもらうインタビュー。
原点は小学生から始めた空手
福井県越前市に生まれた見延氏。子どもの頃はとにかく体を動かすことが好きで、小学生になるとすぐにスポーツを始めた。最初に打ち込んだのは、地元のスポーツ少年団の空手だったという。
「小学1年生の時にスポーツ少年団のチラシを見つけてきて、“瓦を割りたい”という動機で空手を始めたんです。というか、当時は空手=瓦割りだと思っていて、いざやってみると全然違ったのですが(笑)、フルコンタクトで相手と向かい合うことが楽しく、結局は6年生までやり続けました。その少年団が小学校卒業と同時に一区切りになるという風習だったので、そこで私も辞めてしまいましたが、いつかまた競技として真剣に取り組みたいと思うくらいには、空手のことが好きでしたね」
その後、中学時代の3年間は、全国大会に出場するほどレベルが高いバレーボール部に在籍し、その活躍から高校推薦の話も受けていたという見延氏。しかしその話を断って飛び込んだのが、フェンシングの世界だった。きっかけは何だったのだろうか?
「ある日、父から“おまえの身体能力ならフェンシングで活躍できると思うからやってみたらどうだ”と勧められたんです。その時初めて、父もかつてフェンシングをやっていたことを知りました。フェンシング自体の存在は何となく知っていましたし、思い返すと家に剣が転がっていたのですが、父は骨董品を集めるのが趣味だったので、コレクションの1つだろうと思っていたんです(笑)。意外な提案だったものの、地元の越前市にたまたま全国制覇をするレベルのフェンシング強豪校があり、一流の指導者もいるという環境だったため、思い切ってチャレンジしてみることにしました」
空手との共通点からエペの道へ
かくして見延氏は福井県立武生商業高等学校へ進学し、フェンシング部での活動を始めた。実際に競技に触れてすぐに感じたのは、かつて打ち込んでいた空手との共通点とその楽しさだった。
「初めてフェンシングを体験した時、これは自分に向いていると直感的に思いました。対人競技での距離感やタイミングの取り方は空手で培ってきたので、その経験を生かせそうだな、と。何より、空手をやる中で自分が楽しいと思っていた相手との駆け引きの要素がフェンシングにもあって、それが嬉しかったですね」
「突いたら勝ち、突かれたら負け。エペの
その明快さが自分に合っていると思いました」
一方で、もどかしい思いを抱えることもあった。それはフェンシングの種目ごとのルールによるものであり、見延氏がフェンシング人生で進むべき道を決めるほど大きな要素だったと語る。
「フェンシングには、突きのみで戦うフルーレとエペ、突きに加えて斬ることもできるサーブルという3種目があり、高校の部活では基本的にフルーレに取り組むことになります。もともとフルーレは練習用に開発された種目で、細かい剣さばきを習得することを目的としている背景があるため、胴体部分だけが突きの有効面として認められるんです。また、攻撃に“優先権”というものがあり、結果的に同時に突いた場合でも先に攻撃を仕掛けたほうだけが得点するルールになっています。細かいですが、私はこのルールがどうにも納得できなくて―相手の攻撃はかすっただけで、こちらはしっかり突けているのに、先に仕掛けたというだけで相手に点が入るのか・・・と。そんな中、エペだけは優先権がなく、同時突きの概念が存在していて、しかも全身が有効面として認められます。突いたら勝ち、突かれたら負け。その単純明快さが、正々堂々と戦う空手の感覚に近くて、一番楽しいと思えました。だから私は、フルーレが主体の高校時代から、大学へ行ったらエペを専門にやりたいとずっと考えていたんです」
その言葉通り、法政大学へ進学してからの見延氏はエペに専念し、学生フェンシングの五大大会制覇や広州アジア大会での団体銅メダル獲得など、トップ選手への階段をあっという間に駆け上がっていった。フェンサーとして生きていく決意は、いつ頃固まったのだろうか?
「正直、大学に入ったあたりまでは部活の延長というか、100%自分の意志で競技と向き合っていたわけではありませんでした。大学までで競技を終えて、就職して社会人になるという選択肢も自分の中にはあったと思います。でも、国内の大会で優勝を重ね、日本代表にも選ばれるようになったことで、少しずつその意識が変わっていったんです。福井の田舎から上京してきた私には、フェンシングに限らずとも、いろいろな経験を積む中で自分の道を切り開き、何事かを成し遂げたいという野心がありました。そして、大学卒業に際して、この先自分に何ができるのかをあらためて考えた時、新しいことを始めるよりは、今まで歩みを重ねてきたフェンシングの道を突き進むほうが、より遠く、高みまで行けるだろうという答えに至ったんです。その瞬間、自分の中で五輪出場が明確な目標となり、出るからには最低でもメダル、いや金メダルを取るんだというところまで覚悟が決まりましたね」
海外武者修行で得た確かな自信
五輪で金メダルを取る―大きくも明確なビジョンを手に入れた見延氏が大学卒業後にまず敢行したのが、イタリアへの武者修行だった。
「日本のフェンシングにおいて、エペは“勝てない種目”とされていて、実際に世界と比較してもまだまだレベルが追い付いていませんでした。フェンシングは対人競技である以上、レベルの高い相手と剣を交えなければ強くなることはできません。このまま日本に留まっていては自分が設定した目標に対して間に合わない。そう思った私は、イタリアへ修業へ行くことを決めました。フェンシングはフランス発祥ということもあり、ヨーロッパには強豪国がひしめいています。その中でもイタリアは、プレッシャーをかけながら相手を引き出して試合を組み立てる攻撃的なスタイルで世界のトップに立っていました。私自身も、身体能力を生かしてアグレッシブに立ち回るスタイルを目指していたので、そこも自分に合っていると思ったんです」
単身イタリアへ渡り、世界最高峰の技と知識に触れる機会を得た見延氏。練習では、これまでの常識を覆される出来事ばかりで、発見の連続だったという。
「当時の日本のエペは、フルーレの延長でやっているような感じで、イタリアで競技に打ち込む中で、今までの自分たちがいかにセオリーと違うことをしているかがわかっていきました。有効だと思っていた動きが駄目だったり、逆に禁忌だと教わった動きこそ積極的にやるべきだったり――自分の常識とは真逆のことを言われて、こんなにも日本と世界は違うのかと、本当に目から鱗でした。技術的な部分はもちろん、一流選手たちは皆自分で考えて競技と向き合っていて、普段の練習中の姿勢や態度からも学ぶ部分が多く、精神面でもかなり鍛えられたと思います。後から振り返っても、この時の経験がなければ自分は今のレベルまで到達できなかったと断言できるので、実りの多い修業でした」

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