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巻頭企画天馬空を行く

花創作家 / 元女優  志穂美 悦子

志穂美 悦子
ETSUKO SHIHOMI
1955年、岡山県出身。1972年に千葉真一が主宰するジャパンアクションクラブ(JAC)を受験して合格。『女必殺拳』(74)で映画初主演し、以降は日本初の本格アクション女優として映画やドラマに数多く出演する。『上海バンスキング』(84)では日本アカデミー賞助演女優賞優秀賞を受賞。1987年に結婚を機に芸能活動から退いた後、花の世界に魅了され、2010年から花創作家として活動を始める。2011年、東日本大震災復興特別企画として、フラワーアートをまとめた写真集を出版し、売り上げ金を被災地に寄付。花を通じて東日本の被災地、ケニア、チベット難民キャンプへの支援活動を続け、被災地復興支援として「ひまわりプロジェクト」を立ち上げた。2013年に奈良県明日香村で天武天皇御陵献花。2014年、同薬師寺花会式において国宝「東院堂」にて一面に花を飾る奉納をする。「世界らん展」「国際バラとガーデニングショウ」など、各地で展覧会やステージパフォーマンスを披露している。
 
 

アクションがまだ男性俳優の専売特許だった1970年代の日本映画界に突如として現れた「日本初の本格アクション女優」――それが志穂美悦子氏だ。18歳で鮮烈な映画デビューを飾って以降、数々の映画やドラマに出演し、伝説の女優として日本映画史にその名を刻んだ志穂美氏。現在は花創作家として精力的に活動している同氏に、アクション女優の第一人者となるまでの道のりや、10代の頃から今なお持ち続けている開拓者精神、これから実現させたいという前人未到の目標まで、誠実で真っすぐな言葉で語り尽くしてもらった。

 

運動神経抜群でまじめだった子ども時代

1970~80年代にかけて、清楚な美しさと卓越した身体能力を武器にスクリーンで躍動し、多くの映画ファンを魅了した志穂美悦子氏。岡山県岡山市で生まれ、父親は大蔵省印刷局に勤務する国家公務員という家庭で育った同氏は、子どもの頃から運動神経が抜群だったという。

「私の家族は模範的と言えるほどに、まじめでした。冗談を言ったり大声で笑ったりすることがほとんどない家庭環境で育ったせいか、私自身も学級委員長を務めるようなとてもまじめな子どもだったんです。通っていたのが田舎の小学校だったので、バスケットボールなどのクラブはありませんでしたが、当時から陸上競技や水泳が得意で、運動神経は良かったですね。祖父母が教師だった影響もあるのでしょうか、その頃になりたかった職業は学校の先生でした。それが中学校に進学し、『サインはV』などスポーツ根性もののテレビドラマを見るようになり、動きのある女優の仕事に対して憧れを抱くようになったんです。『ああ、世の中にはこういう職業があるのだな』と。でも、自分が将来アクションのできる女優になりたいなんて言えるような家庭ではありませんでした(笑)」
 

父親に猛反対された学生時代の夢

後にアクション俳優として国際的に活躍した千葉真一氏のアクション・スタントによって高視聴率を記録したテレビドラマ『キイハンター』を見て、より一層スタントのできる女優への憧れを強めた志穂美氏。高校2年生の時に、世界で通用するアクションスター・スタントマンを育成するために千葉氏が創設したジャパン・アクション・クラブ(JAC)を受験して合格した同氏は、上京するにあたり両親を納得させるのに苦労したと話す。

「『アクションのできる女優になりたいから東京に行きたい』と言ったら、『何を言っているんだ』と否定されたでしょうし、当時はまだ漠然とした夢でしかなかったので、自分の思いを父に伝えられるような状況ではありませんでした。ただ、私がJACにこっそり出したはがきに対して、『試験を受けにきませんか』という返信はがきが自宅に届いたので、それをきっかけに自分の気持ちを初めて父に打ち明けたんです。そうしたら案の定、初めて聞くことですから猛反対されました。その頃は物理的にも今より東京が遠かったですし、SNSのような情報源もありませんでしたから、娘に突然そんなことを言われたらパニックになるのは当然です。もし私が親の立場でも反対したでしょうね。父に自分の思いを伝えている時に自然と涙があふれてきたことを今でも覚えています。するとその2日後くらいに――もしかしたら母がいろいろと助言してくれたのかもしれませんが――父が今度は『アクションのできる女優になりたいというお前の意欲の芽は摘まない。本気でやりたいと思うならば試験だけは受けさせる。ただ、高校だけは必ず卒業しなさい』と言ってくれました。父もまた、自分が18歳の時に『上海に行きたい』と両親に話して大反対された経験をしていたらしいんです。自身がその時につらい思いをしたこともあり、多少なりとも私の気持ちをくんでくれたのでしょう。父の経験談も聞かされました。それから先述しましたように、私は非常にまじめな子どもだったので、一度決めたら必ずやるに違いないと思ってくれたのもあると思います」
 

千葉真一氏のもとで1年間訓練を積んだ

その後、志穂美氏は千葉真一氏の主演映画『ボディガード牙』(73)で女優・渡辺やよい氏の吹き替えを務め、『ボディガード牙 必殺三角飛び』(73)で女優デビューを果たす。『激突!殺人拳』(74)『直撃地獄拳 大逆転』(74)『少林寺拳法』(75)と共演作が続いた千葉氏は、志穂美氏にとってどのような存在だったのだろうか?

「千葉さんと映画で共演させてもらう前に、JACで1年間の訓練期間があったんです。その時に直接、さまざまな指導をしていただきました。当時はアクション作品の創成期だったので、10メートル四方くらいのエアーマットがJACにあり、そこをめがけて皆が上から次々に飛び降りるいわゆるスタントそのものの練習などもしましたね。私だけでなく、千葉さんの指導を受けていたJACのメンバーは誰もが、『お前ならできる』と言われたら、本当に何でもやれるような心持ちになっていたんです。千葉さんの言葉にはそれくらい説得力がありましたし、フィリピンのマニラ湾でヘリコプターを使って撮影をするなど、当時としては画期的なことをいろいろと経験させてもらいました。千葉さんに背中を押してもらっている感覚はありましたが、師匠あるいは先生というのとはまた違ったんです。千葉さんは、自分のことを『先生』や『師匠』と呼ばれたくないとおっしゃっていました」
 

時代にも後押しされてアクション女優に

今でこそ「アクション“も”できる女優」はいるものの、「本格的なアクション女優」と呼ばれる存在はまだまだ少ない。そうした状況を鑑みると、「清純なアクションヒロイン」と称され、絶大な人気を誇った志穂美氏は日本映画界において画期的な存在だったと言えるだろう。当時の反響や、受け止められ方について質問した。

「最初の主演作『女必殺拳』(74)が公開された後、東映大泉撮影所あてに年賀状が大量に送られてきたので、映画の宣伝担当の方がびっくりされていて、『その前で写真を撮りましょう』と言われたことがありました。その時に初めて、自分が『アクションをやれる女優』なのだということを世の中に認識してもらえたのかなと感じたんです。当時から、どんな分野でもパイオニアにならないと意味がないと思っていました。2番手、3番手では遅いし、なっても意味がない、と。私は高校2年生の時に上京しましたが、それがあと3年遅かったらあのように脚光を浴びていなかったかもしれません。当時はブルース・リーの映画が日本でも公開され、空前の空手ブームが起きていました。その流れで、東映がそういった映画をつくろうと判断したんです。だから、時代が私を『日本初の本格アクション女優』にさせてくれたのだと思っています。参考にした作品や俳優は特にありませんでした。しいて言えば、ブルース・リー主演作『燃えよドラゴン』(73)の中に登場した、アンジェラ・マオさん演じる主人公の妹ですかね。彼女は同作で後ろ回し蹴りなどを駆使していたので、それは勉強になりました。ただ、日本の女優さんで手本となる先行者はいなかった。だから余計に、自分がやりたいと思えたのでしょうね」
 

深作欣二監督の励ましが糧になった

約15年間にわたって女優として活動し、山田洋次氏やつかこうへい氏、大林宣彦氏など、名だたる映画監督・演出家・脚本家たちと共に仕事をした志穂美氏。その中でも特に影響を受けたのが、クエンティン・タランティーノら海外の映画監督たちにも影響を与えている巨匠・深作欣二氏だと話す。
 
「20代半ばの私は、アクションというものに少し悩んでいました。そんな頃に、深作監督が『何を言っているんだ。日本にはアクションができる女優がいないんだから、悦っちゃんは稀有な存在なんだよ。君の肉体が躍動している様は美しい。だから迷うな!そのままで!』と言ってくださったんです。そうした深作監督の言葉にはものすごく励まされましたね。さらには、映画『柳生一族の陰謀』(78)の男装の剣士・柳生茜のような私に合う役も用意してくださったんです。本当に、女優冥利につきました。それから、つかこうへいさんとはもっと一緒に仕事がしたかったですね。次々に作品を用意してくださったのですが、私が結婚をきっかけに女優業をやめてしまうことになったので、結局それもかないませんでした···。1970年代後半からは学園ドラマやホームドラマなど、それまでとは違ったタイプの作品に出演させてもらうようになりましたが、等身大の役を演じることが多かったので、難しさを感じることはなかったです。例えば、学園ドラマ『熱中時代』(78)や『気になる天使たち』(81)では、子どもの頃になりたかった職業である教師役だったので、演じにくいということもありませんでした。当時はそのような役をいただき、水谷豊さんや名高達男さんらとも共演できて嬉しく思っていたんです」

育った所から独立して個人事務所を設立

 1985年には、つかこうへい氏が「志穂美悦子のために脚本を書いた」と言う、角川春樹事務所創立10周年記念作品の映画『二代目はクリスチャン』に主演し、大ヒットを記録。同年、志穂美氏はJACより独立し、個人事務所「ハンドレット」を設立した。

「独立した理由に関しては、ひと言で言うと、組織の中にいるのが嫌になったからなんです。もちろんJACは私を育ててくれた大切な場所でしたが、そういった恩があるからこそ、その中では何もできなくなるというジレンマがありました。やっぱり、長年、同じ組織の中にいると独立したくなるものなんですよね。JACは男の世界=アクションという色が非常に強かったこともあり、私の中でそこから出たくなる気持ちが芽生えたのだと思います」

 

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