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巻頭企画天馬空を行く

元関脇・安美錦 安治川 竜児

安治川 竜児

AMINISHIKI RYUJI
元関協、安美錦。本名・杉野森竜児。1978年、青森県西津軽郡深浦町出身。兄は元幕内・安壮富士。師匠の伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)は親類にあたる。幼い時から父や兄と相撲を始め、鯵ヶ沢高校3年時には選抜高校相撲十和田大会で個人優勝。1996年12月、安治川部屋(現伊勢ヶ濱部屋)に入門する。1997年1月場所、「杉野森」の四股名で初土俵を踏み、同年7月場所から四股名を「安美錦」と改める。2000年1月場所で新十両、同年7月場所で新入幕を果たす。幕内で「最年少、最軽量」だった同場所で10勝を挙げ、敢闘賞を獲得。2003年1月場所では横綱・貴乃花を破り、貴乃花現役最後の相手として話題に。金星は計8つ、殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞6回を獲得。2019年7月場所で引退し、年寄・安治川を襲名した。通算成績907勝908敗。関取在位117場所は元大関・魁皇と並び歴代1位を誇る。
 
 

関取在位は歴代1位タイの117場所、さらに三賞受賞は歴代10位の12回という輝かしい記録を誇る元関脇・安美錦の安治川竜児氏。25歳の時に右膝靱帯断裂を負って以来、何度も大ケガに見舞われながらも、そのたびに不屈の「挑戦者魂」で復活し、当時関取最年長の40歳で引退するまで多くの好角家を魅了し続けた。現在は親方として後進育成に励む同氏に、長い間ケガと向き合ってこれた秘訣や、相撲で勝つために必要なこと、現役時代に特に印象に残った力士のことまで、時折ユーモアを交えながらたっぷりと語ってもらった。

 

自然と相撲に慣れ親しんだ子ども時代

青森県の南西部にある小さな町、西津軽郡深浦町で生まれ、祖父は土地相撲でも活躍した元出羽海部屋の力士、父は青森県の相撲連盟の要職を務めるという相撲一家で育った安治川氏。さらに実家があった深浦町北部の北金ヶ沢が相撲の盛んな土地柄だったこともあり、同氏は幼い頃から相撲に慣れ親しんでいたという。

「私の場合、本当に幼かった頃から、自分の周りに相撲があったんです。父は小学校・中学校の相撲道場で指導をしていましたが、その道場が自宅のすぐ近くにあり、私も子どもの時からよく顔を出していました。また、小学校の校庭の横には土俵があり、そこが遊び場になっていましたね。そんな環境で育ったせいか自然と相撲に慣れ親しんでいき、小学校1年生くらいから本格的に相撲の練習をするようになりました。テレビでも常に相撲を見ていたので、幼いながらに『何で自分は相撲にばかりかまけているんだろう』といった疑問を抱くこともありましたが、とにかく、相撲にのめり込むようになったのはごく自然な流れだったんです。すでに幼稚園の時に、将来なりたい職業の欄に『力士』と書いていましたし、中学を卒業したら相撲部屋に入門したいとも思っていました。でも、当時高校3年生だった兄が親方に声をかけられて先に安治川部屋に入門し、私は兄が通っていた高校で同じ相撲部の先生に教わりたいという気持ちもあったので、その高校に進学することにしたんです。私の地元は青森の中でも特に雪深いこともあり、野球やサッカーの強い学校があまりありませんでした。そのぶん、町の人たちは相撲をやっている子どもたちに温かく、手厚い支援をしてくれたんです。学生の相撲大会があっても、大勢のお客様が来て熱い応援をしてくれました。そのような環境で育ったことも、ずっと変わらずに相撲を好きでいることができた要因の1つだと思います。また、父がプロ力士になりたかったということは子どもの頃からしばしば聞いていたので、父が果たせなかった夢を自分が代わりに実現したいという気持ちもありましたね」

稽古以上につらかった毎日の食事

高校時代は相撲部で活躍し、3年生の夏には全国大会で優勝。そして卒業後に、満を持して安治川部屋への入門を果たす。青森から上京した当時の心境についてうかがった。

「18歳で初めて上京し、駅に降りた時はまず『東京はなんて明るい所なんだ』と思いました(笑)。夜でもまぶしくなるくらいに街が明るかったですし、ネオンなどさまざまな光に対する素朴な驚きがあったんです。すごい所なんだな、というのが東京の第一印象でした。故郷はとにかく田舎ですから、夜7時にはどの店も閉まって町が真っ暗になるんです。そんな環境で育ったので、『生まれ育った青森からずいぶん遠くに来たな』という感慨を覚えました。兄が先に入門していたことや、高校生の時に何度か安治川部屋で稽古をつけさせてもらっていたこともあり、多少なりとも安心感のようなものがあったんです。稽古の相手もほぼ同年代の人たちでしたし、すぐに新しい環境になじんでいけました。ただつらかったのは、体重を増やすためにとにかく食べさせられたことです。毎日のノルマはご飯だけでどんぶり5杯、さらにおかずと、ちゃんこ3杯を夕方の6時に食べ終えると、今度は弁当3つを食べさせられます。結局、夜の11時くらいまでずっと食べ続けていました。それでも、毎日厳しい稽古に明け暮れていたので、食べても食べても太らないんです。当時はそれが何よりもきつかったですね」

大きな感銘を受けた幕内昇進

初土俵は1997年1月場所。その後、2000年1月場所に新十両へ昇進すると、3場所で十両を通過し、新入幕の場所は10勝5敗という好成績で、しかも敢闘賞まで受賞した。幕内の力士になった時には、関取になった際とはまた異なる心境、強い意気込みのようなものを抱いていたのだろうか。

「もちろん、十両に上がった時にも『ようやく関取になれた』という嬉しさはありました。ただ、やはり幕内に昇進した時は、子どもの頃テレビで見ていた夕方の時間帯に相撲を取ることができるわけですから、十両に上がった時とはまた違った感銘を受けましたね。当時はまだ若かったこともあり、プレッシャーはあまり感じていませんでした。土俵入りの際に地元の地名が呼ばれることの喜びも大きく、青森で応援してくれている人たちに1つ恩返しができたという気持ちになったことを覚えています。十両と幕内とで場内の雰囲気自体はそれほど変わらないのですけど、何となく土俵上の照明が1段明るくなったような感じがするんですよ。また、幕内になるとお客様もぎっしり入っており、自分の後ろには大関や横綱が控えていますから、そんな中での土俵入りはやっぱり華やかでいいものでした」

雲の上の存在だった貴乃花と武蔵丸

2003年1月場所では横綱・貴乃花を破り、初金星を挙げて以降、対戦したすべての横綱から白星を挙げるなど、「上位キラー」とも称された安治川氏。横綱・大関との対戦で良い成績を残せた理由、さらには現役時代に特に印象に残った相手について話してもらった。

「上位陣との対戦に関しては、こちらにはメリットしかありません。私は『負けても当たり前』という感覚で挑みますが、向こうは『絶対に負けられない』というプレッシャーがあります。いわば向かっていく者の強みとでも言うのでしょうか。一度大関や横綱に勝つと、その感覚を何度も味わいたくなるものなんです。やはり、強い相手に勝利した際に自分の全身に降り注ぐお客様の声援というのはとてもいいものですから。初金星を挙げてからは、上位陣をどのようにして倒そうかいろいろと研究をするようになりました。大関や横綱との取組の際は緊張もほとんどなく、『とにかく倒してやろう』という気持ちになることが多かったですね。非常にモチベーションが高まったので、相手としては嫌だったと思いますが、そうした気概で立ち向かっていける上位陣がいてくれたことは私にとってありがたかったです。現役時代に特に印象に残っている相手というと、やっぱり、貴乃花関と武蔵丸関という2人の横綱になりますね。当時は雲の上のような存在だった貴乃花関と対戦した時は、あたかも映画のワンシーンの中にいるような、自分を俯瞰できるほど不思議な感覚に陥ったことを今でもよく覚えています。そうした感覚になったのは、後にも先にも貴乃花関と対戦した時だけでした。貴乃花関とは勝ち負け以前に、とにかく相撲を取りたかった。実は対戦の前日にケガをしてしまい、休場することも考えましたが、翌日の取組表を見たら相手が貴乃花関だったので、テーピングを巻いて土俵に上がったんです。他方、武蔵丸関はとにかく体が大きくて、怖かった印象があります。最初に対戦した時に怖いと感じたのは武蔵丸関だけですね。一度目の取組では張り手一発で負かされましたが、頬を張り手された時には頭がクラクラしました(笑)。その何場所か後に再戦して勝った時には、深い感動に包まれたのを鮮明に覚えています。この2人は、私があこがれの念を抱いて挑んだ横綱でした。その後も朝青龍関ら何人かの横綱と対戦しましたが、雲の上のような存在に感じたのは貴乃花関と武蔵丸関でしたね」

 

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