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憧れのメジャーリーグの舞台へ

その後、2003年にはダイエー2度目の日本一に大きく貢献。打率.340、27本塁打、109打点という圧倒的な成績で、100打点カルテットの1人として活躍した。さらに42盗塁を記録し、2度目の盗塁王のタイトルも獲得。輝かしい実績を残し、球界を代表する選手へと成長を遂げる中、井口氏は次なる目標としてメジャーリーグへの挑戦を見据えていた。

「学生の頃から、『メジャーに行きたい』という強い思いがありました。アトランタ五輪で出会った彼らと、もう一度同じ舞台に立ってどうしても勝負がしたかった。とはいえプロ入り後、成績を残していなかった時期にその夢は非現実的でした。それが次第に活躍の機会が増えていく中で、自分に自信が付いていったという感じです」

そうして井口氏は2005年にメジャー移籍を果たし、シカゴ・ホワイトソックスに入団。機動力やバントなどの小技を重視する「スモールボール」戦略を採用していた同チームのオジー・ギーエン監督は、入団当初から、氏に2番セカンドの役目を託した。自己犠牲を強いられる歯がゆいポジションではあったが、それでも氏は135試合に出場して好成績を残し、移籍1年目にしてワールドシリーズ制覇という快挙を成し遂げた。メジャーで通用した稀少な日本人内野手である氏に、その成功の要因を尋ねた。

「自分の中では決して成功したとは言えないですが、それなりに日本でのパフォーマンスに近いものを発揮できたとは思います。その要因は、しっかり準備していたことじゃないですかね。
 メジャーに行く前の3年間は、自分にとって準備期間だったんです。打撃であれば、メジャーのボールに対してどうやって打ったら良いかを考え、バットで捉えるポイントを近くするなど、試行錯誤しつつ練習に打ち込んでいました。それから、守備はボディーバランスの練習を重点的にやっていて。ゲッツーで崩されてケガをしている選手も多かったのに対し、自分はその崩されたときの体のバランスをしっかり取れるようにしていたので、そういったケガはなかったですね」

持ち前の冷静さと前向きさで力を発揮

入念な準備をしたことで、メジャー移籍には自信があったという井口氏。しかし、環境が大きく変化し、言葉の壁もある中で、不安を感じることもあったのではないか。

「自信があったから挑戦したというのがありますし、これでダメなら仕方ないな、という思いもありました。環境の変化も気にならなかったですよ。家族で渡米していたので食事なども変わらなかったですし、そもそもアメリカに行ったら全てがイレギュラーの連続だ、と心の中で思っていたので、どんなことでも日本にいた時より大らかに受け入れられていた気がしますね。アメリカ文化特有の出来事に直面しても、『これもありなのか、さすがアメリカ!』みたいな(笑)。そういう心構えでいたら何ともなかった。言葉もある程度は分かるし、通訳もいましたから、意思疎通のストレスは全然なかったです。それに極端な話、聞きたくないときは聞かなくていいので楽でしたよ。『その言葉分からない、知らない』と言ってしまえばいいかなって(笑)。
 だから、不安以上に楽しみのほうがずっと上回っていました。長年憧れていた目標の場所で、『この選手と対戦してみたい』と思っていた相手と実際に対戦できることが嬉しくて。その意味で、自分にとっては本当に毎日が“記念日”でした。苦しかった思い出なんて1つもないですね」

何事にも動じないクールさと、ポジティブな思考が氏の活躍、そしてチームの88年ぶりとなるワールドシリーズ優勝を下支えした。当時の思いについても尋ねてみた。

「正直、夢中でやっているうちに、気付いたらチャンピオンになっていたという感じです。犠牲的な部分が多いポジションでしたが、ギーエン監督が『MVPは井口。彼のプレーがあってこそチャンピオンを取れた』と言ってくださって。その監督の評価を聞いた時、このチームで良かったし、この監督の下でプレーできて本当に良かった、と心から思いました。
 チームのために、ということはホークス時代からずっと考えていましたし、一人ひとりが自分の与えられた役割をこなすことでチームが勝てるのだと思います。全員が4番打者になるのでは意味がなくて、1番には1番なりの、2番、3番にもそれぞれの役割があるわけですから。やっぱり、チームがその分担を選手にしっかり与えて、選手がそれを全うすることが大事なんですよね」

セカンドにこだわり、日本復帰へ

その後、2007年にはフィラデルフィア・フィリーズ、2008年にはサンディエゴ・パドレスへと移籍。ケガに苦しむ時期が続くも堅実なプレーを続けた。そして2009年、前年途中に復帰していたフィリーズをはじめ複数のメジャーチームからのオファーがあったが、氏は千葉ロッテマリーンズとの契約を結び、日本球界に復帰することとなった。自身のケガや家族の生活環境のことを踏まえての決断でもあるが、一番の理由はポジションにあったという。

「当時、メジャーでオファーがあったのはサードでしたから。その時はセカンドへのこだわりが強かったので、条件の合ったロッテに入団を決めました。実は、昔ショートをやっていた時には、セカンドほど簡単なポジションなんてあるのかなと思っていたんですけど(笑)、実際にやってみたらすごく難しくて。やっぱり逆方向の動きが多いので、ゲッツーも角度が難しいし、ボディバランスが良くないとできないんです。あと、今は球場も広くなっていますから、ライト・セカンドの肩が弱いとどうしても三塁打になりやすくなってしまう。そういったいろいろな部分の能力が高くないと守れないという意味で、今のセカンドは魅力がありますよ。難しいがゆえに面白い。自分も、もっと突き詰められたかなと思うくらいです」

日本復帰後も、その活躍ぶりは健在だ。2010年からは3番セカンドに定着し、日本シリーズ優勝に貢献。2013年には、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で田中将大投手から本塁打を放ち、日米通算2000本安打を達成した。

「2000本安打を打った時は達成感はありましたが、一方で、ここまで長く続けてきて、レギュラーで出場できていれば、到達できる数字でもあるかなと思うんです。だから『2000』という数よりは、大きなケガもなく、試合に出続けてこられたことの感慨深さのほうが大きかったですね。長くやってきたんだなぁ、と。いざ打ってしまえば通過点というふうに感じました」

 
 
 

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