巻頭企画天馬空を行く
「たまたま風が吹いて、今の私があります。
この役割を与えてもらったことに感謝したい」
不調の中つかんだ金メダル
現役復帰後、2011年の世界選手権で日本人最高成績となる銀メダルを獲得し、同時にロンドン五輪の出場権も得た村田氏。紆余曲折を経て勝ち取った夢舞台への切符―当時どのような思いがこみ上げていたのだろうか。

「2011年の世界選手権では、2回戦で過去に世界選手権2連覇を達成したことがある選手と当たって、そこで勝てたことが本当に大きかったです。どれだけ努力を積み重ねても、勝てなければ余計に自信を失ってしまいます。それを精神鍛錬だと割り切る考え方もあるのかもしれませんが、私はやはり、努力が結果として現れる、成功体験が重要だと思うんです。最終的には銀メダルを獲得できたので、“ロンドン五輪では金メダルだ”と信じることができましたし、その目標に向かって一心不乱に突き進めました」
その言葉通り、ミドル級で出場した村田氏は五輪初出場の重圧をものともせずに勝ち上がり、決勝まで駒を進めていった。しかし、意外なことに自身では本戦のパフォーマンスは「良くない」と感じていたという。当時の状況について、詳細を語ってもらった。
「好調であれ不調であれ、“〇・△・×”のように今の自分の状態がはっきりとわかっていれば問題ないんです。良い状態なら継続すればいいし、悪い状態なら問題点を改善すればいい。でも、当時の私の状態は、そのいずれでもない、言わば楕円の形をしていました。明確に調子が悪いわけではないけれど、何かがおかしい――世の中ではそれをスランプと言うのかもしれません。私がそんな状態に陥ってしまった原因の1つが、スポーツ科学の考え方でした。体の動かし方として、体の中心から末端へ、例えばパンチを打つ場合は骨盤や体幹が先に動いて最後に手が動くというのがスポーツ科学的な正しい順番なのですが、実際にそれをやってみると動きが不自然になって体が開いてしまったり、振り遅れてしまったりするんです。端的に言うなら、正しいけれど正しくない状態。私はその状態に戸惑い、何とか調整しようとしながら、結局は解決しないまま五輪本戦を迎えました。だから、パフォーマンスが良くないのは当然のことだったんです」
論理的な正解と体の感覚の不一致に悩みながらも、五輪を戦い抜いた村田氏。結果は、日本人ボクサーとして48年ぶりとなる金メダル――本調子とはほど遠い状態で、結果としては最高のものを得たという経験は、同氏のボクシング人生にとってどんな意味を持ったのだろうか。
「1つ言えることがあるとすれば、努力と結果は因果で結び付かないということですね。私は結果的に五輪で金メダルを獲得することができましたが、それは自分が努力をしたからだとか、努力したことへの当然の報酬だとか、“努力”そのものを誇りたい気持ちはありません。なぜなら、それは他人の努力の否定になるからです。私より多くの努力をしている人はたくさんいます。もちろん私も努力はしましたが、同じ人である以上は他人の20倍、30倍の努力をすることなんて不可能です。でも、私が得た報酬というのは、他人の20倍、30倍では収まらないくらい大きい。そうであるなら、私が金メダルを獲得できたのはラッキー以外の何物でもないと思うんです。かつて、書道家・小野道風は、遠くの柳の葉に飛び付こうと跳ね続ける蛙に“届くわけがないのに馬鹿だな”と思っていたところ、たまたま風が吹いて柳の葉がしなり、飛び付くことに成功するところを見て“人生はこんなものかもしれない”と感心したといいます。私もその蛙と同じで、たまたま風が吹いてくれたおかげで今があるのです。だから、この役割を与えてくれた神――Something specialに感謝したい、私はそういう考え方をしています」
見せたい試合を見せられたプロキャリア
ロンドン五輪後の2013年、村田氏はアマチュアからプロへの転向を発表した。その決断には、金メダリストになったことで世間から過剰に注目されることへの複雑な心の内も関係していたという。
「自分では良いパフォーマンスではなかったと思っているのに、金メダルという結果が先に走っていって、完全無欠の人間の像だけが勝手につくられていってしまうことへの居心地の悪さはかなり感じていました。世間からも注目されて、もう大学職員としての普通の生活には戻れないだろうと思っていた折に、NHKの『課外授業 ようこそ先輩』という番組で母校の奈良市立伏見小学校を訪れる機会があって。そこで2日間、授業を通して小学生たちと触れ合う中で、自分も『プロになってラスベガスで試合をする』という子どもの頃の純粋な夢を追いかければ良いじゃないかという気持ちになったんです。ただ、本当はもっと前に自分の中で決心はついていたように思います。人は多くの場合、物事の決断は先に決めているものです。私もきっと、プロになることはとっくに決めていて、それを肯定する要素をどこかに探していたのかもしれませんね」
かくしてプロの世界へ飛び込んだ村田氏。アマチュアボクシングとプロボクシングはラウンド数や評価基準に違いがあるが、同氏のボクシングスタイルはどのように変わっていったのだろうか。
「最初はこれまで自分が積み上げてきたアマチュアボクシングを、プロ仕様へ変えようと試みたのですが、すぐにそれは間違いだと気が付きました。十数年とボクシングを続ける中で自分の中にできたベースを壊す必要はなくて、そのベースをもとに長いラウンドに慣れたり、ペース配分をしたりすれば良いんです。それがわかってからは、少しずつプロの試合にフィットしていけたと思います」
試合をしながらプロボクシングにアジャストし、連勝を続けた村田氏は、2017年にハッサン・ヌダム・ヌジカムとの試合に勝利し、WBA世界ミドル級のチャンピオンとなった。その後2018年にロブ・ブラントに敗れたことで一度は王座から陥落したものの、翌2019年の再戦では勝利を収め、王座奪還も達成した。村田氏の中では、この二度目のロブ・ブラントとの対戦が特に印象に残っているのだという。
「ロブ・ブラントとの1戦目は私が単純に駄目で、先ほどの状態の例で言うと完全な“×”でした。でも、だからこそそこから修正していく作業はスムーズだったんです。突っ立っている、体が開いている、それを直していく。そうやってエラー部分を改善していけば、50点のパフォーマンスを出すことはできるようになります。私は50点出て負けたなら、それは負けだと納得できると思うんです。いつも以上の力を発揮するなんてことはそうないからこそ、いかにいつも通りを出せるようにするかが大切で、その状態をしっかり整えられていた再戦時は自信を持てていました。おそらくキャリアで最初で最後、“今回は絶対に勝つ”と言ってリングに上がったくらいです。実際に試合でも勝つことができましたし、私が見せたかったボクシングは、あそこで皆さんにお見せできたかなと思います」
巻頭企画 天馬空を行く
- フェンシング五輪金メダリスト 見延 和靖
- マルチタレント/ 歌手 中川 翔子
- ロンドン五輪ボクシングミドル級金メダリスト / 元WBA世界ミドル級スーパー王者 村田 諒太
- 元K-1ファイター 武蔵
- ヒップホップアーティスト / 実業家 AK-69
- サンドファクトリー / K-POP FACTORY CEO キム・ミンソク
- 元K-1スーパーバンタム級王者 WBO世界バンタム級王者 武居 由樹 × 元ボクシング世界三階級王者 大橋ジムトレーナー 八重樫 東
- 株式会社 サンミュージックプロダクション 代表取締役社長 岡 博之
- 元サッカー日本代表 / NHKサッカー解説者 福西 崇史
- スポーツクライミング選手 緒方 良行
