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Challenge+(チャレンジプラス)

巻頭企画天馬空を行く

「打ったり蹴ったりは素人でもできます。でも、
ディフェンスは格闘技を極めないとできません」

 

勝つために貫いた“武蔵流”

1999年にK-1 JAPAN GPで優勝し、その後も2003年までに計4度の優勝を果たすなど、日本人選手の中では絶対的な存在となった武蔵氏。自分自身の中にも、デビューから海外選手と戦ってきた矜持と、世界一になるには国内では負けられないという覚悟があったと語る。

「JAPAN GPが始まったことで日本人のK-1ファイターが一気に増えて、周囲も『誰が武蔵を倒すんだ』という注目の仕方をしていたように思います。でも、私はこれまでにやってきた経験値の違いから絶対に負けない自信がありましたし、日本人相手に五分で戦っているようでは、K-1 WORLD GPで優勝すると言う権利すらないと考えていました。ただ勝つのではなく、圧倒的に勝つ。それで初めて日本代表としてWORLD GP決勝戦の舞台である東京ドームに行く権利を得るのだ、と」

その言葉通り、武蔵氏は2003年にはJAPAN GPの王者としてWORLD GP決勝戦に参戦し、レイ・セフォーやピーター・アーツといった並み居る強豪たちを次々と破り準優勝を果たした。ヒットアンドアウェーで、フットワークを生かしながら自分だけ的確に有効打を与えていくスタイルは“武蔵流”と称され、「ディフェンス力は世界一」とまで評価されたが、自身ではそのスタイルについてどう考えていたのだろうか。

「ヘビー級という階級は上限がないため、特に海外選手と対戦する時はほとんどが自分より大きく重い相手になります。でも、同じ階級で戦う以上は、相手のほうがでかいから、重いから勝てないという風に思われてはいけない。では、どうすればその中で生き残っていけるのだろうと考えた時に、学ぶべきは攻撃ではなく防御、相手の攻撃をもらわない技術だという結論に達したんです。それに、極端に言えば打ったり蹴ったりは素人でもできますが、ディフェンスは格闘技を極めなければできません。打撃がかするだけで倒れたり、ブロックの上からでも効かされたりするヘビー級だからこそ、私はブロックすら最後の手段と考え、相手の攻撃をかわしながら、逆にその力を利用してカウンターを狙っていくスタイルを突き詰めていきました」

勢いはあるが危なっかしい選手よりは、見ていて安心できる選手のほうが理想に近いと語る武蔵氏。“やるかやられるか”のスリルとはある意味対極にあるそのスタイルは、一部のファンから「おもしろさに欠ける」と批判されることもあったという。しかし、そんな雑音を武蔵氏は結果でかき消して見せた。

「K-1 WORLD GPは本来、開幕戦で16人から勝ち上がった8人が決勝戦へ進めるシステムだったのですが、日本人は同年のJAPAN GPで優勝すれば決勝戦に直行できるようになっていました。私はその特別扱いが嫌だったので、2004年はあえて開幕戦からWORLD GPのほうに出場して、自力で決勝戦の切符をつかみ取ったんです。最終的な結果は2年連続での準優勝――もちろん本当は優勝したかったですが、“武蔵流”でここまでやれるんだということを見ている人に示せた達成感もありました。実際、それ以降は私のスタイルを批判する声は聞こえなくなっていきましたし、自分のやり方は間違っていなかった、貫いて良かったと思えて嬉しかったですね」

勝つことにこだわり、己の信念を貫き通した武蔵氏。しかしそんな同氏が一度だけヒットアンドアウェーのスタイルを崩したことがある。それが、2009年のジェロム・レ・バンナ戦、自身の引退を懸けた試合だった。その理由について、当時の心境と共に語ってもらった。

「2005年以降は、WORLD GPで準優勝以上の結果を残すことができなくて、毎年毎年『次こそ優勝します』と言うのが自分の中でつらくなっていったんです。だから、2009年は『開幕戦で勝てなければ辞めます』という言葉で、武道家としてのけじめを示すことにしました。相手のバンナは、デビュー時期が近くて仲が良く、誰もが知るハードパンチャー。そんな彼とどう戦おうかと考えた時に、打ち合いたいという気持ちが芽生えたんです。ヒットアンドアウェーだけではない“武蔵流”の集大成を見せよう、と。これはもちろん自分のためでもありますが、これから世界と戦っていく後進やファンの方たちのためでもありました。日本人も打ち合える――それを見せるのが自分の最後の使命だと感じたんです。バンナも私の思いに応えてくれて、結果的に負けはしましたが、見応えのある試合になったので、良い引き際はつくれたと思います」

 

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