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日本競輪選手養成所 所長 瀧澤 正光 × 競輪選手 原 大智

日本競輪選手養成所 所長 瀧澤 正光
× 競輪選手 原 大智

 

瀧澤 正光
1960年、千葉県出身。中学・高校時代はバレーボール部に所属していたが、「自転車に乗れなくても競輪選手になれる」という新聞広告を見たことをきっかけに、日本競輪学校に入学する。同校を卒業し、1979年4月に選手登録。初出走だった大津びわこ競輪場でのレースで初勝利を挙げた。以降、圧倒的な練習量によって鍛え抜かれた脚力で、KEIRINグランプリ優勝2回、日本選手権優勝3回、高松宮記念優勝5回、オールスター競輪優勝2回を飾るなど、中野浩一氏、井上茂徳氏、山口国男氏、佐々木昭彦氏らとともに競輪黄金時代を築いた。2008年6月に現役を引退。現役時代の2007年より日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)の名誉教諭を務め、2010年4月1日に第23代校長に就任した。
 

原 大智
1997年、東京都出身。小学6年生から本格的にモーグルを始め、2018年の平昌オリンピック・男子モーグルで銅メダルを獲得。冬季五輪におけるフリースタイルスキー競技の男子種目において、日本人選手としては初の表彰台に立った。2019年5月に在籍していた日本大学を休学し、日本競輪選手養成所に入所。瀧澤所長のサポートもあり、モーグルを続けながらの二刀流の挑戦を決意する。2020年8月にいわき平競輪場で行われた「FII2日目第1レース」で、競輪選手として初勝利を飾った。モーグル選手としては2022年の北京オリンピックにも出場。全日本フリースタイルスキー選手権大会出場後に引退を表明し、3月に行われた「いわき平FI」で競輪への復帰を果たした。
 

 

現役時代はその圧倒的な強さから「怪物」とまで呼ばれた競輪界のレジェンドで、現在は日本競輪選手養成所の所長を務める瀧澤正光氏。その瀧澤氏に後押しされ、競輪とモーグルの「二刀流」に挑戦したのが、平昌オリンピック・男子モーグル銅メダリストで、現在は競輪一本で勝負する原大智氏だ。年齢もキャリアも異なりながら、他競技から競輪に転身したという共通点を持つ2人が対談形式で、競輪の醍醐味や競輪選手にとって何よりも重要なこと、人生で大切にしていることや競輪界の未来まで、たっぷりと本音で語ってくれた。

 

人から勧められて始まった競輪人生

 
瀧澤正光氏、62歳。原大智氏、25歳。親子ほどの年齢差がある両氏だが、2人には共に他競技から競輪に転身したという共通点がある。数あるスポーツの中から競輪を選んだ理由、また、他競技から転身したことによるメリット、あるいは反対に苦労した点などを語ってもらう形で、対談は始まった。
 
瀧澤 競輪を始めたきっかけは父の勧めでした。父が熱心な競輪ファンで、私は幼い頃から競輪選手という仕事に興味を抱いていたんです。ただ、親に反抗するというわけではないにせよ、将来就く職業は自分で見つけたいという思いもありました。そうした紆余曲折を経て、高校3年生になり進路に悩んでいた時に、偶然にも新聞で「自転車に乗れなくても競輪選手になれる」という広告のコピーを目にしたんです。体を使った仕事をしたいという強い思いもあったので、競輪の世界に飛び込みました。学生時代はずっとバレーボールをやっていましたから、体の基礎ができていたというメリットはありましたね。ただ、パワーがあるから自転車競技でもうまくいくかというとそう簡単ではなく、バレーボールで培った筋肉は自転車で用いるものとは異なったので、それをどう競輪という競技に適合させていくかという点では苦労も多かったです。
 私もきっかけは人からの勧めによるものでした。ある方から競輪の世界に熱心に誘っていただき、現在の師匠にあたる和田圭さんを紹介してもらったんです。それで自転車で練習をしてみて、そのスピード感など競輪の魅力に引き込まれました。以前は「自転車競技は単なる体力勝負なのかな」と思っていましたが、まったくそんなことはなく、実際に練習をしてみたところコテンパンに打ち負かされたんです。その時に「悔しい」という思いと、「競輪って楽しいな」という思いの両方を感じました。この先もずっとモーグルだけをやっていけるわけではなかったですし、競輪が職業として自分に合っているなと思い、競輪選手を目指すことにしました。なかなか自転車が進まない、そのことに対する苦労は現在も続いています。モーグルをやっていたことによって、体幹や基礎体力は備わっていると思うのですが、それらをなかなか自転車競技用に変換できないという点がもどかしいところです。やはり、モーグルと競輪はまったく別のスポーツなのだと感じています。
瀧澤 そうですね。その点は私も感じていましたし、確かに慣れるのに時間はかかると思います。

瀧澤氏が原氏の挑戦を後押しした理由

原氏が競輪とモーグルの二刀流の挑戦を選んだ際、競輪への本気度を疑う声など、競輪ファンからは厳しい意見も出た。しかし、そんな中で同氏の挑戦に力添えしたのが瀧澤氏だった。異論も含めてさまざまな意見が上がった中、瀧澤氏はなぜ原氏の挑戦を後押ししたのか。二刀流が実現するまでの難しさを含めて聞いてみた。
 
瀧澤 これまで、前に取り組んでいた競技にピリオドを打って競輪に切り替えてくる人は私を含めて大勢いました。しかし原選手の場合は2つの競技を同時進行で行うパターンだったので、「こんな選手は今までにいなかったぞ」と興味を抱いたんです。果たして本当にそんなことができるのかなと。そういった気持ちから原選手に対する関心が高まりまして、「これはおもしろい。こういう選手がいてもいいんじゃないか」と、その活躍ぶりをぜひ見てみたいと思うようになりました。もちろん、同時に難しい面もありましたね。日本競輪選手養成所に入所した当時、原選手も言っていましたが、モーグルに戻るための準備を常に整えておかなければならない、と。例えば、トレーニングで競輪に必要な筋肉を付けたとして、モーグルでジャンプした時にその筋肉が負担になって今まで飛べたジャンプができなくなるのではないかという不安も抱いていたと思います。やはり、そういったところで「二刀流」の難しさはあったでしょうね。
 そうですね。やっぱり最初は競輪のほうがうまくいかず、なかなか成績が上がりませんでした。でも養成所をクビになるのは絶対に嫌でしたし、それでモーグルに戻っても本末転倒なので、プロデビューしてからはまず競輪の活動を安定させることを一番の目標に置いていたんです。その最中にはモーグルのことは頭になくて、とにかく競輪で良い結果を残すことだけを考えていました。それがひと段落ついた時点でまたモーグルに変更したのですが、その時は今までの(モーグルに関する)貯金があったんです。もちろん、当時もそれなりに苦労はありましたが、長年培ったものは忘れていませんでしたね。

人生で最も過酷だった瀧澤氏との練習

2019年4月、原氏は日本競輪選手養成所の特別選抜試験に合格。競輪選手になるために同養成所で1年間、猛特訓に励んだ。自転車経験がなくゼロからのスタートだったこともあり、とにかく過酷な日々を過ごしたという。
 
 最初の2ヶ月、瀧澤所長の「T教場」に入れさせていただきましたが、これまでの人生の中で一番きつい練習でした。
瀧澤 (笑)
 いや、それはもう本当に大変でしたね(笑)。
瀧澤 私は最初の頃、原選手は入所してすぐに良いタイムを出すだろうという半ば妄想のようなものを抱いていたんです。しかし、実際は良い記録を出すのに苦労しました。それで次第に、彼を必ず卒業させてプロ選手にしなければいけないという、指導者としてのプレッシャーを感じるようになったんです。何せこれだけの逸材ですから、絶対に競輪界で華々しく活躍してもらいたいという思いもあり、そのためには絶対にプロ選手になってもらわなければならない。良いタイムが出なければプロになれないという結果に至ってしまうので、それは何が何でも防がなければ、という気持ちで指導していましたね。ですから原選手が一生懸命頑張り、2ヶ月間の特訓が終わって良いタイムも出るようになった時は安堵しました。その際に原選手に「これからもT教場で練習するか?」と聞いたら、「いえ、他の教場で頑張ります」と言われまして(笑)。自分の元を巣立っていったような感じで、一抹の寂しさはありましたね。
 当時の私には、瀧澤所長に「これから先もT教場にいさせてください」という勇気はありませんでした(笑)。
瀧澤 (笑)
 瀧澤所長からは技術的なこともさることながら、まずは自転車に慣れることから教えていただきました。バイクで引っ張っていただくなど、所長ご自身が昔やられていたような練習をひたすら行ったんです。
瀧澤 もちろん理論や理屈もありますが、「鉄は熱いうちに打て」と言うように、徹底的に鍛えなければいけない時期というものがあるんですよ。「原選手にとってはそれが今だ」と感じていました。本人には相当つらい時間だったでしょうが、そういう経験がないと絶対に向上しないなと思ったので、ぶれずに指導したんです。

 

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