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コラム

シネマでひと息 theater 25
良質な映画は観た人の心を豊かにしてくれるもの。それは日々のリフレッシュや、仕事や人間関係の悩みを解決するヒントにもつながって、思いがけない形で人生を支えてくれるはずです。あなたの貴重な時間を有意義なインプットのひとときにするため、新作から名作まで幅広く知る映画ライターが“とっておきの一本”をご紹介します。

映画監督は心身ともにタフでなければ務まらない仕事だと言われます。演技や美術などのディテールから、チーム全体の士気に至るまで広大な分野に意識を注ぐのはもちろん、仕上がった作品のクオリティにも責任を持たねばなりません。一本の映画をつくるために費やされるエネルギーは、きっと相当なもののはずです。しかし世の中には、高齢になってもなお崇高な審美眼を失わず、映画界を力強く牽引し続ける存在がいます。

94歳にして最新作『TOKYOタクシー』(25)を完成させた山田洋次監督は、日本が誇るその筆頭でしょう。そしてもう一人ご紹介したいのが、イギリスで最も尊敬を集めるケン・ローチ監督です。現在89歳のこの巨匠が3年前に完成させた『オールド・オーク』(2026年4月24日より日本公開)は、自ら「現役最後」と称する作品。あまりに素晴らしく、私は鑑賞中ずっと心が震えっぱなしでした。

活気を失った街に建つパブの物語

舞台はイギリス北東部にある、かつて炭鉱業で栄えた町。炭鉱の閉鎖をきっかけに経済が疲弊し、長いあいだ困窮に喘いできました。いまでは失業率の高さや賃金の低さから、日々の食料に困る人もいるほどです。ここに残るパブ「オールド・オーク」は、いわば時代の生き証人のような存在。昔ながらの常連客が思い出話に花を咲かせる、数少ない憩いの場と言っていいでしょう。

そんな中、行政がシリア内戦で住む場所を失った難民たちを受け入れ始めたことをきっかけに、難民に手を差し伸べようとする人々と、彼らに強い不安や反発を抱く人々の間で、町の空気は徐々に分断されていきます。パブのオーナー、TJ・バランタインは、愛する故郷が引き裂かれていく光景を前に、何とか人々が同じ場所で向き合える機会をつくれないかと思い始める。その結果、パブ内の閉め切っていた一室を解放し、無料で食事を提供する炊き出しを始めることを思いつくのですが・・・。

TJは寡黙で誠実な、ごく普通の男です。傍目には目立つ人物には見えませんが、その芯には確かな思いが宿っていることに、私たちは少しずつ気付かされます。その原動力の一つとなるのが、写真家志望のシリア人女性ヤラとの絆です。壊れたカメラをきっかけにヤラと知り合ったTJは、彼女の故郷が置かれている現実を知り、胸が締め付けられる思いを抱きます。住む場所や大切な人々を失った難民たちには手を差し伸べたい。しかし同時に、長年この地で暮らしてきた仲間たちの保守的な立場も理解できる。TJはその板挟みの中にいます。

価値観の異なる両者がすぐに歩み寄ることは、おそらく不可能でしょう。しかし時間をかけて交流を重ねる場所と機会さえあれば、少しずつ理解を深め、互いの不安を取り除いていけるのではないか。その気付きが彼を行動へと向かわせます。パブがもともと「パブリック・ハウス(公共の家)」の略語であるように、店が本来の役割を果たせるよう努めることこそオーナーの務めだと、TJは考えているのかもしれません。

理念と現実が衝突するとき

同時にTJの胸をよぎるのは、この町が歩んできた長い歴史です。とりわけ今から40年前、政府の石炭政策に抵抗して全国の炭鉱労働者たちが激しいストライキに打って出たとき、一家の働き手の収入が途絶え、多くの住民が空腹に苦しみました。そうした人々を支えたのが、地域の人々が力を合わせて行った炊き出しです。「オールド・オーク」の一室もまた、人々が共に食事をし、団結の意識を育む場でした。いま再びその部屋を解き放つことには「あの“連帯”を取り戻したい」という切なる願いが込められています。

TJは、ギリギリのところで経営を維持している小規模事業者であり、決して慈善事業家ではありません。本来なら、これほどの負担と反発のリスクを抱えて行動する必要はない。しかしこの問題を放置しても行政が解決してくれるとは限らないでしょうし、もしコミュニティが崩壊すれば、商売どころか住民の精神的な基盤そのものが失われてしまうかもしれない。これは理念と現実が衝突する局面で下される決断です。TJは小さなパブのオーナーにすぎませんが、その姿は、利益と信念の間で揺れる経営者の姿とも重なって見えます。解決の近道など存在しない。それでも絶望することなく、一歩一歩を踏みしめながら希望を育てていけるのか。本作はTJの葛藤と歩みを、力強いリアリティとヒューマニズムで描き出しています。

そもそもローチ監督は、キャリアを通じて労働の現場や市井の人々の暮らしを見つめ続けてきた人です。格差が広がる昨今、同じイギリス北東部を舞台にした近年の2作品では悲劇的な結末が印象的でした。しかし一方で彼は、この地域の人々との交流を通じ、暗い時代にも勇気と決意を持って立ち向かう、強く寛大な人々に数多く出会ったと語っています。TJというキャラクターは、そうした人々の集合体なのかもしれません。彼らに感化されながら、巨匠の中で“最後の一作”へ臨む力が自然と湧き上がったのでしょう。

本作には絵に描いたようなハッピーエンドはありません。しかしTJの取り組みが決して無駄ではなかったと思わせる、ほのかな温もりと希望の芽が残ります。困難の時代の光となるのは人間の信念であり、人々の連帯なのだと、巨匠は私たちの胸に静かに語りかけているかのようです。

《作品情報》
『オールド・オーク』
監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァティ
出演:デイヴ・ターナー、エブラ・マリ、クレア・ロッジャーソン
配給:ファインフィルムズ
ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開中
 
イギリス北東部の炭鉱の町に残る唯一のパブ「オールド・オーク」。かつての活気は失われ、いまや厳しい状況にあるが、住民にとっては最後の拠り所だ。店主のTJ・バランタインは試行錯誤を重ね店を守っているが、町がシリア難民を受け入れ始めたことで、パブは居場所を争う諍いの場となる。先行きを危ぶむTJは、カメラを持ったシリアの女性ヤラと出会い、思いがけない友情を育む。果たして彼らは、互いを理解する方法を見つけられるのだろうか――。
 
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
 
 
《著者プロフィール》
牛津 厚信 / Ushizu Atsunobu
 
1977年、長崎県生まれ。明治大学政治経済学部を卒業後、映画専門放送局への勤務を経て、映画ライターに転身。現在は、映画.com、CINEMORE、EYESCREAMなどでレビューやコラムの執筆に携わるほか、劇場パンフレットへの寄稿や映画人へのインタビューなども手がける。好きな映画は『ショーシャンクの空に』。

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