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コラム

シネマでひと息 theater 9
良質な映画は観た人の心を豊かにしてくれるもの。それは日々のリフレッシュや、仕事や人間関係の悩みを解決するヒントにもつながって、思いがけない形で人生を支えてくれるはずです。あなたの貴重な時間を有意義なインプットのひとときにするため、新作から名作まで幅広く知る映画ライターが“とっておきの一本”をご紹介します。

『ロッキー』(1976)、『レイジング・ブル』(1980)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『ケイコ 目を澄ませて』(2022)など、これまでボクシングを題材にした映画が無数につくられてきました。その多くが重厚で腹にずしんとくる名作ばかり。これほど高品質な仕上がりを遂げられる最大の理由は、このジャンルが徹底したリアリティを必要とすることに尽きると思います。

中でも体づくりは特に大切です。ボクサーと言えば、内にえぐりこむようなシャープな筋肉が特徴的ですし、リング上の足さばき、繰り出すパンチの風を切る音、相手を捉えた時の鈍い衝撃音などが織りなす独特のリズムもたたき込まねばなりません。そして何よりもあの「眼」。死に物狂いで生きようとする動物の本能や、勝利への飢餓感を丸出しにした瞳の危うさは、長きにわたる苦しい鍛錬を乗り越えなければ到達しえないものです。

ニセモノはすぐにバレる。そのためつくり手がボクシング映画を選び取ることは、決して後には引けないことを意味します。その並々ならぬ覚悟が伝わってくるからこそ、拳(こぶし)のドラマはこれに関わるあらゆる人々の生き様と重なって、私たち観客の五臓六腑に響いてくるのでしょう。

*また1つ、ボクシング映画の名作が誕生した・・・

その意味でも、今回ご紹介する『春に散る』は実に優れた作品です。ボクシング映画としてのリアリティをきちんと描きながら、そこに登場人物の人生を熱く深淵に刻み込み、鑑賞中、自分でも気付かぬうちに幾度となく拳を握り、涙してしまうほどでした。

物語は2人の男の出会いから始まります。1人はボクシングで天下を取りたいという野望を持ちながら、不公平な判定負けに怒り一度は夢を諦めた若者、黒木翔吾(横浜流星)。もう1人は、かつて有望選手だったものの、日本のボクシングに失望して渡ったアメリカで夢やぶれ、その後はボクシングとは別の道で40年という月日を歩んできた初老の男、広岡仁一(佐藤浩市)。

最初はお互いにかみ合うところがまったくなく、黒木の「俺にボクシングを教えてくれ!」という懇願にも広岡の気持ちは微動だにしません。しかしこの若者の物怖じしない肝の座り方、破格の身体能力、何をしでかすかわからない危なっかしさに、少しずつ感情が揺らぎます。彼の心に芽生えたのは「こいつは若い頃の俺にそっくりだ」という、どこか無鉄砲さを懐かしむような、それでいて自分が人生のどこかに置き忘れた情熱をもう一度取り戻しにいきたくなるような衝動だったのかもしれません。兎にも角にも、2人は共に歩み始めます。広岡は黒木を王者に育て上げようと決意し、黒木もまたハードなトレーニングを乗り越えながら、徐々に広岡が見込んだ才能と度胸の良さを花開かせ、確かな結果を手にし始める・・・。

*2人のどちらも完全燃焼を目指す主人公であるということ

この映画のおもしろいところは、黒木がたった1人の力でリングに立つわけではないという点です。彼が見る夢を、広岡もセコンドの位置からしっかりと見ている。つまりこれは2人の共闘の物語で、どちらがメインとか引き立て役とかではなく、それぞれがもう二度とは巡ってこない「この瞬間」を生き抜こうと必死にもがいているのです。

おそらく黒木にとってもこれだけ素直な吸収力で「教えを授かる」のは初めてでしょうし、広岡にしても長い人生で「教える側」に立つのは初めての経験です。今ようやくたどり着くことができたその境地は、自分の生きた証を何かしらの形で残したい、託したい、という切なる思いの現れだったのかもしれません。いわば2人は両輪です。そうやって互いが互いにとって欠かすことのできない存在となり、これまで1人の力ではびくともしなかった大きな運命が予想もしない方向へと動き出していきます。

私たちは一生のうちに、このような師匠や弟子の垣根を超えた共闘者と、どれだけ出会えるのでしょうか。そして限られた人生の中で一体どれだけの期間、同じ夢を見て、自分しか持ち得ないものを惜しみなく相手に授け、また自分も授けられながら、共に走り続けられるのか――。

走り抜けた先で良い結果が得られるかどうかも大切ですが、本作が力を込めて描くのは、ただ「咲き誇る」のではなく、タイトルにもある「散る」という領域に達するまでいかに完全燃焼できたかという点です。「散る」には、プロボクサーという仕事での成功や失敗を超越した、この映画の主人公ならではの魂の極め方や、人生の根幹に触れる何かがあるように思えてなりません。黒木と広岡。彼らの生き様はきっと、観る人に大きな感動をもたらし、今この瞬間を精一杯に生きようとするすべての人の心を力強く鼓舞してくれることでしょう。

《作品情報》
『春に散る』
2023年 / 日本 / 配給:ギャガ
監督:瀬々敬久 原作:沢木耕太郎『春に散る』(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
出演:佐藤浩市、横浜流星、橋本環奈、窪田正孝、山口智子ほか
8月25日(金)より全国公開中
 
40年ぶりに日本の地を踏んだ、元ボクサーの広岡仁一。そんな広岡の前に、不公平な判定負けに怒り、一度はボクシングをやめた怒れる青年・黒木翔吾が現れ、広岡の指導を受けたいと懇願する。やがて翔吾をチャンピオンにするという広岡の情熱は、翔吾はもちろん、一度は夢を諦めた周りの人々を巻き込んでいく。
 
© 2023映画『春に散る』製作委員会
 
 
《著者プロフィール》
牛津 厚信 / Ushizu Atsunobu
 
1977年、長崎県生まれ。明治大学政治経済学部を卒業後、映画専門放送局への勤務を経て、映画ライターに転身。現在は、映画.com、CINEMORE、EYESCREAMなどでレビューやコラムの執筆に携わるほか、劇場パンフレットへの寄稿や映画人へのインタビューなども手がける。好きな映画は『ショーシャンクの空に』。

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