コラム

人生は登りや下りの連続だとよく言われます。登り調子の時は多少つらいことがあっても跳ねのけられるほど気力に満ち溢れ、逆に下り坂になると先の見えない不安に心も落ち込んでしまうもの。では、逆境に置かれた時、私たちはどのような心構えで乗り切ればよいのでしょうか。その答えを探りたいがため、私は時として“山登り”をモチーフにした諸作品に手を伸ばすことがあります。なぜなら登山を愛する人々の多くは、登る時も下る時も、あらゆる瞬間に楽しみや喜びを見いだし、一歩一歩を踏み締めているように思えてならないからです。
現在公開中の映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』は、登山家の田部井淳子さんが著した『人生、山あり“時々”谷あり』(潮出版社)を原案とした映画です。メディアなどを通じて生涯にわたって登山の素晴らしさを余すことなく語ってこられた田部井さんは、1975年、35歳の時に女性として史上初のエベレスト登頂を成し遂げ、その後も世界中のさまざまな山に挑み続けました。2016年に77歳で亡くなるまでの晩年は、東日本大震災で被災した高校生のための富士登山プロジェクトに惜しみない熱意を注ぎました。映画ではこの分身ともいうべき多部純子役(多少フィクションを含むことから役名が微妙に変わっているのでしょう)を、のんさん(青年期)と吉永小百合さん(壮年期)のお二人が演じ分けています。
まだ見ぬ風景をひたすら目指し続ける
もしも彼女が刻んだ“記録的なもの”に目を向けるなら、筆頭に挙げられるのは間違いなくエベレスト登頂です。しかし書籍『人生、山あり〜』を紐解いてみると、冒頭部分にはっきりと「世界記録がつくりたくてエベレストに登ったわけではない」と記されています。ならばいったい何のためにー?同じ章内に答えはすぐ見つかりました。それは「自分が見たことのない景色を見たい」から。自らを登山家でなく、登山を純粋に楽しむ“愛好家”と称する田部井さんは、「人生においてまだ見ぬ風景」こそを「最高峰」と表現し、「これからも最高峰を目指し続けたい」と同書を締めくくっています。私は思わずハッとさせられました。きっとこの方にとって、山も、谷も、日常も、あらゆる未踏の地が最高峰となりうるのでしょう。
その精神は映画にも受け継がれています。のんさん演じる若き日の純子がエベレストに挑むくだりは、間違いなく本作における最も力のこもった壮大なスケールの場面です。しかし、それはあくまで通過点に過ぎません。登頂後も主人公は好奇心の赴くままに、今この瞬間を存分に楽しみながら日々を超えようとします。同役のバトンが壮年期を演じる吉永小百合さんに引き継がれてもなお、歩みは一向に緩むことなく、これまで以上にハツラツとした表情で踏みしめられていくのです。
「苦しい時こそ笑う」をモットーに
一方、この物語では悲痛な出来事も描かれます。あれほど日本中が沸いた純子のエベレスト登頂も、決して良いことばかりではありませんでした。世間の注目が純子1人に集中するため、初めはあれほど和気藹々としていた登山隊メンバーが次々と離脱していってしまいます。志を同じくした仲間と袂を分かつ寂しさというものは、おそらくビジネスに携わる方々にとって少なからず身に覚えのあることではないでしょうか。また、有名な親を持つことは子にとって大きな負担となり得ます。「多部純子の息子」として母親と比較されることにすっかり嫌気がさした真太郎は問題児となり、その後も母親を避けるように、ほとんど家庭に寄り付かなくなってしまいます。
そして純子にとっての最大の苦難は、がんを発症し余命宣告を受けたことでしょう。しかし驚くべきことに、病気を理由に彼女が肩を落としたり、歩調を緩めたりすることはありません。むしろ「苦しい時こそ笑う」をモットーに、心も体もアクティブであり続けます。その姿を夫(佐藤浩市)がいつも寄り添って支え、エベレスト登山隊時代からの盟友(天海祐希)も精いっぱいの声援を送り続ける。そのうえ、疎遠になっていた息子もいつしか身近なところで活動を継承するかけがえのない仲間となっていく・・・。その生き様に誰もが魅了され、ふと気付くと彼女の周りにはいつもポジティブな思考を持った人たちが集まって輪をなし、楽しい雰囲気が満ち満ちています。
本作は、過去の栄光にすがるでもなく、遠い未来を夢見るわけでもなく、ただひたすら、昨日より今日、今日より明日をより良いものにしようと全力で歩み続けた女性の物語。もちろん、容易くお手本にできる生き方ではないのは百も承知です。しかしこの映画は確実に私たちに影響を与えるでしょう。私も今この瞬間から、己のできる範囲で「まだ見ぬ景色」を追い求めていきたいと、若輩者ながらそう強く思うのです。
『てっぺんの向こうにあなたがいる』監督:阪本順治 脚本:坂口理子 音楽:安川午朗 原案:田部井淳子「人生、山あり“ 時々”谷あり」(潮出版社) 出演:吉永小百合、佐藤浩市、天海祐希、のん ほか 10月31日(金)全国公開 2025年 / 日本 / 配給:キノフィルムズ 1975年、多部純子は女性として初めてエベレスト登頂に成功した。その輝かしい偉業は光をもたらす一方で、純子に、そしてその友人や家族に深い影を落とすことにもなった。晩年においては、余命宣告を受けながらも「苦しい時こそ笑う」と家族や友人、周囲をその朗らかな笑顔で巻き込みながら、人生をかけて山へ挑み続けた。登山家として、母として、妻として、そして1人の人間として・・・。純子が最後に「てっぺん」の向こうに見たものとは― ©2025「てっぺんの向こうにあなたがいる」製作委員会 《著者プロフィール》 牛津 厚信 / Ushizu Atsunobu1977年、長崎県生まれ。明治大学政治経済学部を卒業後、映画専門放送局への勤務を経て、映画ライターに転身。現在は、映画.com、CINEMORE、EYESCREAMなどでレビューやコラムの執筆に携わるほか、劇場パンフレットへの寄稿や映画人へのインタビューなども手がける。好きな映画は『ショーシャンクの空に』。 |
『てっぺんの向こうにあなたがいる』
牛津 厚信 / Ushizu Atsunobu